リーズナブル

リーズナブルと言う言葉を「安い」という意味に理解する日本人は多いようです。しかし、リーズナブルというのはreason+ableなので、適正な、あるいは妥当なという意味に解釈しなければなりません。

最近は「安くXXする方法」とか、「XXを安く買う方法」なんて記事をよく見かけますが、世の中、適正な利潤を得た、適正な販売価格というものは必ずあるものです。

もちろん、中間マージンをカットしたり、無駄な経費をカットして安く販売する努力は必要ですが、高いところには高いだけの理由があり、安いところには、安いだけの理由があると考えるのが正常な発想でしょう。絶対金額だけで比較すると、中身というか、本質が見えません。同じものでも、高い1万円もあれば、安い2万円もあります。

日本を含む東南アジアには、支払うときに値切るという習慣があります。相手の言い値より安く買えると得をしたような気がするのでしょう。

バナナの叩き売り、というのが昔ありました。子供のころに近所の道端で一度だけ見た記憶があります。あれは、あれで、商売というよりは、ひとつの「芸」、エンターテイメントだと思います。これと、ガマの油売りは見てみたい。

売る側も、多くは値切られるのを見越した価格を提示します。北陸自動車道の徳光PAに隣接するハイウェイ・オアシスは、歩いて外に出れば温泉にも入れる楽しい場所で、ハイウェイ・オアシスの中には金沢・近江町市場の魚介店が何軒か出店しています。前を通り過ぎると声を掛けてくれ、コレとコレならいくら、とスペシャル・プライスを提示してくれます。もちろん限界はあるものの、どんどん値下げしてくれ、じゃあ、いくらが正当な価格なの?と思ってしまいます。前に、ここで買い物をしたあと金沢に行き、近江町市場を歩いたところ、ハイウェイ・オアシスで買った価格より同じものを安く販売しており、ガッカリしたことがありました。

1970年代の始め、日本のツアー客が大挙して欧米諸国へ押し寄せました。高級ホテルの中をステテコとスリッパのままで歩き回ったり、レストランでバッグの中から梅干を取り出して食べたり、バスタブの外で掛け湯をして下の階に水を漏らしたり(私の母親もやりました)、シャンゼリゼで立ちションをして捕まったりと、いわゆるNokyo-Tour(本当の農協団体が、どれぐらいの割合だったのかは知りませんが)の武勇伝をしょっちゅう新聞やテレビで見掛けた記憶があります。世界中の観光地に自分の名前を残してくる「落書き」も問題になりました。買い物に夢中になったり空港内で迷子になり、飛行機を待たせた、なんてことも頻繁に起こりました。甚だしくは、帰りの飛行機に乗るや否や、ズボンを脱いで何人かで酒盛りを始め、酔った勢いで客室乗務員に無理やりチップを握らせ、隣でお酌しろと言って拘束されたというニュースまでありました。

ツアーを申し込むと、マナー・ガイドのパンフレットをくれました。母親がもらってきたので見ましたが、チップはいくらが適切か、洋式便器の使い方、ビデの説明、風呂の入り方、ホテルやレストランでのマナーなどなど、当時の日本では一般的でなかった様々なことや習慣の違いが記載されていました。その中で、最もインパクトがあったのは、男性用便器で背の高いものがあるので、そこで無理やり用を足さず、そういう時は「大」のほうで用を足しましょう、という注意書きでした。確かに。私にも経験があります。一瞬、どうしようかと思いました。ちなみに、そのときの便器にはジノリと書いてありました。知人の奥様にジノリの食器を頼まれたものの販売店が見つからず、ミラノで探し回ったあとだけに、複雑な気分でした。

買い物も同様で、いまの爆買いツアーそのものです。パリの有名ブランド・ショップで、いきなりズボンを下げ、腹巻の中から現金を取り出して、この棚のものを全部買ったら、いくらにするのか、といった感じだったそうです。某有名ブティックに日本語で「代金はお引きできません」と書いてあるのを、実際に、私はこの目で見ています。No Discount とは書いてありませんでした。

東南アジア全般に言えることかもしれませんが、売る側には「高く言って、もし買ってくれたらラッキー」という意識があり、払う側には「どうせ儲けてるに違いない。本当は、もっと安いに違いない」という意識があるのでしょう。要するに、ある意味で信頼関係がないのかもしれません。それでも、対象がモノ(商品)なら、売る側にも買う側にも、頭の中におおよその適価がありますが、工賃や人件費となると、少々お安くしても、それでも支払う側は高いと思われるもののようです。そういった猜疑心があるのも、支払う側に価値を判断する能力というか知識がないことに加え、適正な利潤に対する理解がお互いに食い違っているのかもしれません。支払う側が絶対的な強者で、受け取るほうが絶対的な弱者という感覚、言い換えれば、支払う側が一方的に、お前は安アパートに住んで、食費もケチれ、というのでは、働く気も起こりませんからね。大げさに言えば、こういった目に見えない圧力が社会の格差というか、二元化を招いている一因なのかもしれない、なんて思ってみたりするのですよ。本来的に、支払った金額と、それで得るモノや使役はイコールのはずですし、支払う側と受け取る側は、対等でなくてはならないはずです。

住宅関連機器も、よく分かりません。カタログ上の定価と、実際の販売価格とが違いすぎるからです。前に家内と某メーカーのショー・ルームにガス・コンロを見に行ったところ、思いのほか高価でビックリしました。予算オーバーだから、と丁重にお断りして帰宅しますと電話が掛かってきて、いきなり、オプション込み、設置料込み、消費税込みで本体定価の半額近い価格を提示されました。私は元電機メーカーにおりましたので、中身(部品原価等)を考えれば定価が高すぎると感じていましたが、中間業者や施工業者も含め、そういう価格構成にしなくてはならない業界の「暗黙の了解」があるのでしょう。特定の業界には多いようですが、こんなシステムが今後も長く続くとは思えません。自動車業界でも、最近、保険会社が自社提携工場での修理を強く勧めるのも、同じ理由でしょう。

ついで、ですが、サラリーマンをしていたころ、当時、私がいた中南米課に某商社で食品輸入を担当していた人が中途入社で入ってきました。南米でコーヒーの買い付けをしていたそうです。コーヒー豆の価格は相場ですので日々変わります。そこで、高いときには買った豆に「香りにも味にも影響のない豆」を混ぜて価格を調整するという話を聞いたことがあります。私はコロンビアに出張すると、いつもコーヒー豆をドッサリ買って帰りましたが、なるほど、コロンビアで買って帰るコーヒーと、日本で売っているコロンビア・モカとでは、味も香りも違うのは当たり前なのか、と思った次第。

最近では、さすがにデパートやコンビニで値切る人は皆無でしょうし、外国人旅行者にも日本は価格表示が適切でボッタクリがないという評判のようですが、定価と実売価格の差や、同じモノでも価格幅が大きいもの、あるいは中身の見えないものは、何にしても、まずは値切ってみる、という習慣はまだまだ根強く残っているようです。

お金を支払う側も、お金を受け取る側も、お互いがリーズナブルと感じることができる世の中であってほしいと思います。