頚城鉄道

父は鉄道車両が好きでした。1971年、かつて存在した頚城鉄道(現・頚城自動車)が廃線になったとき、車両10両ほどと、レール、枕木、短い鉄橋。駅の設備など、そのまま小さな路線が敷設できるほどのものを引き取りました。六甲山の山中に所有していた土地に短いレールを引き、トンネルのような保管場所を作り、その中に殆どの車両を収納しました。父には、それを山中で走らせたいという夢があったようですが、山野商法(二重売り)に巻き込まれ、20年近い時間を失い、その夢は実現せぬまま世を去りました。

2004年。知人を通じて頚城村の有志からコンタクトがありました。廃線から33年が経過していました。当時、頚城村は上越市と合併することが決まっており、頚城村最大の文化遺産である頚城鉄道の車両を後世に残したいという趣旨でした。

頚城村は明治時代から米の生産地として有名で、大正元年に地元資金で村内に鉄道を敷設しました。上越市と合併したときも、村としては珍しい黒字の行政組織で、いわば持参金付きで合併に応じたそうです。

私に否応はありません。もとあった場所こそ、これらを保存するのに最も相応しいのですから。私は父が引き取ったすべてを旧頚城村に寄贈し、バトンタッチしました。私の唯一の条件は、動態保存することでした。返還したときの状態がすこぶる良好で、外観に錆は出ていても、腐りは見られません。おそらく簡単なオーバーホール程度で動くようになるだろうと思ったからです。私の会社でレストアしているクルマに比べると、遥かに良い状態でした。クルマも同じですが、鉄道車両も走ってこそ保存する意味があると考えています。公園の片隅で錆の塊になっている鉄道車両は、見るに忍びません。

この返還は、当時、鉄道雑誌や一般の雑誌、新聞等にも取り上げられ、奇跡の帰還として大きな話題になりました。そして、その後、返還した車両のうち動力を持つ2台が自力で動く状態になりました。口約束を果たしてくれた関係者には頭が下がる思いです。

トンネルの中から33年ぶりに引っ張りだした車両たちdc10

海外には数多くの保存鉄道があります。単に懐かしいからだけではなく、文化遺産、産業遺産として社会的に広く認識されているからでしょう。運営も、殆どがボランティアで行われています。

国が急速に発展する過程では、「過去の文化遺産や産業遺産を保存する」などという精神的余裕はありません。それでも日本は城や神社仏閣を保護してきたのは幸いでした。幸運にも多くの古民家も残っています。しかし、明治維新から、もうすぐ150年。かつての急成長時代は終わりを告げ、過去の社会を振り返る余裕が出来たということでしょうか、国内でも数多くの文化遺産、産業遺産を保存する動きが広まってきました。クラウド・ファンディングという新しい手法も現れました。

海外では鉄道車両だけでなく、古いクルマや航空機も立派な文化遺産、産業遺産として認識されています。多くの熱心な人たちが、利己を離れた立場で保存し、次の世代に引き継ぐ努力をしています。そういった意識がマニアだけでなく、一般の方々にまで浸透するのに、日本ではあと50年ぐらいは掛かるのでしょうか。しかし、そのときにどれぐらいのクルマが生き残っているのだろう。