大学教授

この会社を始めるまえ、海外でレストアというものを勉強しました。それまで私が漠然と頭に描いていた、レストア=修理の延長、のような感覚は見事に覆され、目から鱗が100枚ぐらい落ちる思いでした。そもそも、レストアが何たるものか、何のために行うのか、という基本的なことから、そうやって古いものを後世に残すという発想というか、文化そのものに私は打ちのめされました。何でも海外でやっていることを、そのまま真似るのではなく、それとは別に、日本なら、こんなことが出来るんじゃないか、という様々な新しい方法も考えました。私の知識や自動車整備業界の中では出来ない様々なアイデアについて、創業以来、いろいろと相談に乗っていただいたのが、大阪大学名誉教授の香月正司さんでした。氏の教え子や学会のご友人、果ては、その教え子の方にまで、お世話になりました。

あるレーシング・カーに車検を付けてくれといわれ、ハタと困ったのがスピード・メーターでした。ミッションにスピード・メーター用のギアなど付いていませんし、そもそも付く構造にすらなっていません。相談させていただいたところ、氏のご友人の教え子が某メーカーの開発室におられることが分かり、その方が熱とダストに影響されない特殊な発信機とセンサー(回転数のカウンター)を開発し、世界で最も正確なデジタル表示の自動車用スピード・メーターを作ってくれました。恐る恐る、おいくらですか?と伺ったところ、発電機のタービン回転数を制御するシステムに使えるので、開発費用は結構です、と言っていただけました。その後、この車は欧州に戻っていきましたが、スピード・メーターがどのような原理で動いているのか、おそらく誰も理解できなかったと思います。

ホームページにお名前とエピソードを記載する承諾を戴こうと思い、お電話差し上げましたところ、相変わらず、でした。

何が「相変わらず」かと言いますと、氏は大学で燃焼機関、要するにエンジンの研究をするお堅い側面と、自身がクルマ好きで超マニアという側面を併せ持つ、稀有なセンセイだということです。今日も、誰かが面白いエンジンを作ったので、いまから見に行く、とおっしゃっておられました。先日、市から後期高齢者の案内が届いた、とおっしゃっておられましたが、いまなお旺盛な好奇心をお持ちのようです。

そもそも氏は学生のときから一風変わっておられたようで、勉強よりもレースにハマっていたそうです。大学を出ると、一旦は某自動車メーカーに就職し、エンジンの開発に従事されたそうですが、会社の方針が気に入らないと言って大学の研究室に戻ってしまわれました。やりたいことと、しなければならないこととの違いに嫌気がさしたのでしょう。私の息子も某大学でセンセイと呼ばれる職業をしていますので、大きな声では言えませんが、だいたい、大学のセンセイなどと呼ばれる人種は、他からあれこれ言われると急に機嫌が悪くなるようです。そういう意味では、まるで正反対の職業のように見えますが、ひとつのものを極めるという意味でも「職人」と相通ずるものがあるのかもしれません。

もう20年ほど前でしょうか、ひょっこりお見えになり、英国でホンダS800クーペの安いのを見つけたから買った、とおっしゃいました。そして、それをご自分でレストアするのだ、と宣言されました。私は、正直、どうせ途中で放り出す。レストアなんて、そんな甘いもんじゃない。と思いましたが、苦節12年、氏は見事ご自分でレストアされました。欧州、特に英国では自分でクルマをレストアすることを趣味とする方が多く、そういった方のための「整備工場に隣接した貸しガレージ」もありますが、日本では、実際にご自分でレストアされる方は、本当に数えるほどでしょう。私も、かつて自宅で作業しようと思い、建築中の自宅リビングの真ん中にエンジンを吊るためのホイスト用フレームを埋め込もうとしたところ、家内にバレて断念したことがありました。その前年、正月休みをすべて使い、吹きっさらしのマンション駐車場でヒーター・ファンの配線がショートして燃えたメイン・ハーネスを引っ張り出し、複製を造り、それをまた押し込むという作業をしており、それが辛かったのです。誰しも、室内で冬はヌクヌク、夏は涼しく作業できれば、と思うものです。それでも、1階のリビングに庭から直接クルマが乗り入れられるようベタ基礎にしたおかげで、阪神大震災でも家は助かりました。世の中、何が幸いするか分からぬものです。小林彰太郎さんが我が家にお見えになったとき、リビングにクルマを入れているのを見て、真顔で「リフトが欲しいね」とおっしゃいました。

レストア中、休みの日には「つなぎ」を着て、弊社の片隅でセッセと作業に励んでおられました。誰も、この方が著名な大学教授だとは思わなかったでしょう。何度もお見えになられるので、お客様から「新しい職人さんですか?」と聞かれたぐらいです。もちろん、物理的に個人では不可能な塗装だけは弊社でお手伝いさせていただきましたが。氏はこのときの奮闘記を2010年、日本機械学会エンジンシステム部の会報に寄稿しておられ、それを読みやすくしたものがあります。http://wattandedison.com/Katsuki_2016.2.21_Ver.4.pdf

氏はご自身がクルマそのものに強い関心と興味をお持ちですので、学生にも理論だけでなく、現物を、見て、触って、学ぶ、ということを実践させました。エンジンを分解させたり、組ませたり、その間に感じることを大切にされていたのでしょう。また、学生にレースをさせ、ソフトとハードの両面から発想することも大切にされておられました。氏の研究室には某メーカーから寄贈されたフォーミュラーが置いてあったそうです。おそらく、学生のいないときにはシートにもぐり込み、心はサーキットを疾走していたのでしょう。

氏の教え子にはメーカーに就職した人が多く、氏がホンダで講演会をしたとき、記念にと楕円ピストンを飾り物にした置物をくれたそうです。氏はそれを持ってきて、楕円ピストンについて熱く語ってくれました。しかし、私はシロートですので、ある単純な疑問を氏に伺いました。ところで、このピストン・リングは、どうやってハメたのでしょね。楕円だと均等に伸びないので、歪んでしまうのではないでしょうか。かといって鋳込みでもなさそうですし。氏は返答に窮し、また聞いとくわ、とおっしゃいましたが、その返事は、まだお聞きしていません。

氏は退官後、記念に日本で最も良く出来ているクルマを、ということで某車種を購入されましたが、エンジンがどうなっているのか見たいと思っても、個人ではカバーすら外せない。カバーを外すとエンジンが掛からなくなる、とお怒りでした。どうやら、我々のように、なんでも自分で触ってみたくなる年代は、メーカーにとって「困った人たち」のようです。