中国の想い出

いまや中国は世界第二位のGDPを誇る経済大国で、何もかも新しく建設したからでしょう、深圳など、まるで未来都市ですし、屋台ですら携帯決済です。人口の所得上位1割、1億4千万人だけを見れば、様々な意味で、すでに日本を凌駕しているのかもしれません。しかし38年前の南京は江蘇省の省都とはいえ、まだまだ発展途上で、日本社会との様々な差や違いに最初は戸惑いましたが、慣れるにつれ、日本ほど中国文化の影響をいまだに色濃く残している社会もないと思うようになりました。だいいち、筆談で漢字を並べると、なんとなく「当たらずとも遠からず」の大意が理解しあえる国なんて、世界中で日本と中国ぐらいです。路地を入ると、どちらかと言えば洋風の上海とは違った、どことなく懐かしさを感じる街並みや雰囲気があり、出会った人は純朴で親切な人ばかりでした。

30年以上も前の個人的な記憶の断片を集めたものですし、あくまでも僕個人の理解と見解ですので、誤解や誤記もあると思います。また、日本から見た状況と、現地での実情には大きな乖離もあると思います。その点は善意をもって、ご理解いただきますよう、お願いいたします。

僕が南京に約1ヶ月出張したのは1980年の秋でした。南京で日本製品の展示会が開催され、日本のメーカーから合計50人ほどが派遣されたのです。各分野から1メーカーずつが選ばれ、展示会を通じて南京周辺の地方政府(公団)と直接商談するのが目的です。当時は1978年に日中平和友好条約が結ばれ、日中双方が友好促進に努力していた時期にあたります。各地の地方政府はJetroだったか日中友好協会だったかを通じて日本製品の展示会を誘致し、展示会を通じて日本製品を買い付けていました。日本のメーカーも、まだ中国に正規代理店やネットワークがなく、日本製品を中国各地に広めるには、こういう展示会を利用するしか方法はありませんでした。多くは価格を下げ、赤字覚悟で将来の市場のため積極的に参加しましたし、地方政府にとっては日本の最新技術を見る数少ない機会でしたので、かなり異例の優遇で誘致していました。もちろん、週に何日かは一般市民にも公開されました。

JALのB-747で上海まで飛び、そこからローカル線に乗り換えて1時間ほどで南京です。当時の中国では、南京を外賓(海外からの旅行者)には開放しておらず、南京へ行くには中国のビザだけではなく、南京に立ち入るための特別許可が必要でした。もちろん、事前に中国大使館にパスポートを送り、入国ビザと南京滞在許可、そして国家機関の招待客(?)である旨のハンコと署名をもらっていました。また、南京では外貨交換ができませんので、上海空港で強制的に一定の米ドルを中国元に交換させられました。当時の東ドイツなどと同じですね。チャーリー・ポイントを通って東ドイツに入る際は、1日いくら、という計算で強制的に西独マルクを東独マルクに1:1で交換させられました。東ドイツを出るときは、入国した時の計算書を見せなければ西独マルクには交換してくれません。忘れて東独マルクを持ったまま出国しますと、東独マルクは紙くず同然でした。中国元と言っても当時は政府が外貨をコントロールしていましたので、この年、1980年から、我々が受け取れるのは中国で流通している通常の人民元ではなく、外国人専用の外賓元(兌換券)になりました。価値は同じですがデザインが違います。しかも、南京でおつりとしてもらった人民元の紙幣は、特に小額紙幣ほど擦り減って文字が読めないほどボロボロでしたが、外賓元はすべて新券でした。人民元には5か国語ぐらいで、なにやら書いてありました。と言っても、英語やフランス語が書いてあるのではなく、チベット語やアラビア文字風の言語など、中国国内で使われている様々な言語です。1つの国では1つの言語が使われているという日本人の固定概念では考えられないというか、中国は多民族国家なのだということを感じさせる紙幣でした。

上海空港に到着し、到着ロビーでパスポートにハンコをもらい、米ドルを外賓元に交換しますと、そこからは地上に降りて歩きます。事前連絡があったのか、荷物の中身もチェックせず、全くのフリー・パスでした。僕たちを待っていたのは、ソ連が戦後ライセンス生産したDC-3(日本でも戦前にライセンス生産しています)で得た技術をベースに開発したと言われるIl-14(おそらくは中国がIl-14をライセンス生産したY-6)でした。Il-14の搭乗経験は、僕にとってちょっぴり自慢です。さすがに、この機体に乗った経験のある人は少ないでしょう。一見すると太ったDC-3といった感じですが、主翼形状がまったく異なり、プロペラもハミルトン系が4枚。前輪式のため、お尻側から搭乗します。上海まで乗ってきたB-747との落差に驚き、同乗者はしきりに不安がっていましが、僕だけは内心ワクワクしていました。その時の乗客は我々だけでしたので、チャーター便だったのでしょう。定員は25人ほど。1機では乗り切れませんので2往復するとのこと。僕はその1便に乗りました。

搭乗するとしばらくして花柄模様の旧式魔法瓶からお茶を入れ、配り始めました。それも紙コップではなく、プラスティックの茶碗です。月餅のようなお菓子も出てきました。前席の背中からテーブルが出てくるでもなく、片手に茶碗、片手にお菓子、でした。もちろんセイフティー・インストラクションなどありません。座席はパイプ・フレームにクッションをはさんで上から布を張った軍用機のような簡易構造で、シートベルトなど紐のようにチャッチイものです。とはいえ、航空機事故など、落ちればどの道、助からないことは同じですので、要するに墜落する確率だけの問題です。パイロットがなかなか到着せず、乗り込んで1時間近くが経過し、乗客が退屈してザワザワしてきたころに、ようやくパイロットが二人搭乗してきてエンジンを掛けました。クークークーというスターター音のあと、機体全体を振るわせながら、エンジンはスタートしました。Il-14に搭載された星形14気筒のエンジンは、P & W R-1820星形9気筒エンジンをソ連がライセンスを得て国産化し、それを独自に発展させたたものですので、音も似ています。しかし、第二次大戦で多くの米軍機に使われ、聞く機会の多いダブル・ワスプのR-2800(18気筒)の音に比べると線が細く、音もパラパラとして、ひ弱な感じは否めません。

搭乗機はやがて滑走路に出て飛び立ちましたが、なんとスチュワーデス用の席などなく、スチュワーデスは「立ったまま」でした。これにはビックリ。さらにビックリしたのは、飛び立って暫くしたころにスチュワーデスがキャビン上部の小さな「格子戸」のような空気取り入れ口を端から手動で開き始めたことでした。一瞬、機内は霧が立ち込めたように真っ白になり、乗客は騒然となりました。それでもスチュワーデスは、メイシー(大丈夫)、メイシー、とニコニコしているだけでした。エアコンなど付いていませんので外気を直接入れたのですが、冷たい外気が機内の暖かく湿った空気に触れて霧状になったようです。彼女にとって僕たちの反応は「いつものこと」だったのでしょう。

与圧構造を持たないレシプロ機ですので飛行高度も低く、僕は最も後ろ寄りの窓際席でしたので地上の景色も良く見えました。どこまでも続くのどかな農村の景色を見ていると、僕は少しアヤシイ雰囲気に気付きました。僕が乗っている左側のエンジンが調子悪いのです。時々、排気管から黒い煙の塊を吹き出します。その度に機首を振りますので、ひょっとしてエンジンがストールし、その度にエンジンを再スタートさせているのではないかと疑い始めました。たまにプロペラ越しに見える景色が変わりますので、プロペラのピッチを変えているようにも思えました。おいおい、エンジンの調子が悪くなったら、普通は最寄の空港に緊急着陸すんじゃないのかよ、なんて思いましたが、方向を変える気配はありません。飛行時間を考えると、その時点で最も近い空港が南京だったのかもしれません。

そんなこんなで南京空港に近づいてきましたが、左側のエンジンはますます調子が悪くなってきたらしく、遂にはエンジンを停止させたようです。回っているプロペラの1枚1枚がハッキリ見えるほど回転が落ちたからです。まさか、この年代でフル・フェザー機能(プロペラのピッチを変え、進行方向の空気抵抗をゼロにする機能。米国では第二次大戦機にはすでに付いていました)が付いていないのか?などとちょっぴり驚いていると、すでに高度は下を通るトラックの荷台に乗っている農民の数が数えられるほどにまで下がっていました。南京空港の滑走路にアプローチしていたのです。スチュワーデスはニコニコしながら窓のカーテンを閉めて回りました。何か中国語で話していますが、僕にはわかりません。唯一、聞き取れたのは、ノー・カメラ、ノー・ピクチャー。要するに撮影するなということでした。

滑走路へのアプローチは、機体が少し斜めになったような状態でした。最もビックリしたのが、当時の南京空港(現在の南京禄口国際空港は1997年に開港)は軍民共同使用だったため、滑走路の両側には堰堤が数多く作られ、そこには博物館級のIl-28爆撃機(中国でライセンス生産したH-5)や、Mig-17戦闘機(中国でライセンス生産したJ-5)がズラっと駐機していたことです。しかも、堰堤と堰堤の間には更に小さな堰堤があり、機銃が設置されていました。それが一斉に我々の機体に照準を合わせ回転しました。カーテンの隙間から覗いていた僕はビックリして小さな声をあげてしまいましたが、スチュワーデスはニコニコして、「トレーニング」と言いよりました。そして、車輪が接地した瞬間、機体がキュッと向きを変え、真っすぐになりました。慣れていたのでしょう、片肺飛行、片肺での着陸と、まさに名人芸の操縦で感動しました。他の乗客がすべて降りた後、パイロットにナイス・コントロールと言って話しかけると、コックピットを見せてくれました。北極点を通過するときにB-747のコックピットへ入れてもらったことがありますが(昔はウルサイことを言わなかったのですよ)、それに比べ、実にシンプルなアナログ計器類が並んでおり、戦前の航空機のようなフット・ペダルと自動車のような丸い操縦桿など、形状もレイアウトも、前に見せてもらったDC-3のコックピットにそっくりでした。あとから同乗者に聞くと、誰もエンジンの不調に気付いておられなかったようで、それにもまた、ビックリ。

タラップを降りると到着ロビーらしきものもなく、小さな建物とコントロール・タワーがすべてでした。滑走路の横から、そのままバスに乗り込みホテルまで直行です。スーツケースと荷物は別便で上海からトラック輸送ですので、翌日ホテルまで配達されます。おそらく満席で搭乗すると、荷物まで載せられなかったのでしょう。そういえば、新潟からハバロフスクまでJALのB-727に乗ったときも乗客全員が順番に計りに乗って体重測定したため、ふくよかな妙齢の女性客が顔を真っ赤にして抗議しておられました。

エンジン不調にもかかわらず、第2便に乗った人たちは、予定よりは遅れましたが夜には到着しました。聞くと同じ機体だったようですので、エンジン不調は彼らにとって深刻な問題ではなかったというか、燃料系か点火系か、いずれにしても「よくあること」だったのでしょう。いまでは考えられない出来事と経験でした。

ホテルはレンガ造りの古い平屋建てで、学校の校舎のような建物でしたが、それでも南京では唯一の外賓用ホテルだと聞きました。我々以外に宿泊者はおらず、どうやら、その日から1カ月の期間中、主催者が借り上げていたようです。特に歓迎会のようなものもなく、その日はホテルで夕食を取りました。メニューは豊富で選ぶのに困るほどでした。なにせ頭の中は「本場の中華料理」への期待で一杯。料理名は中国語で書かれていましたが、同じ漢字の国です。なんとなく、どのようなものかは想像できます。ところが、コレと言って注文するとウェイトレスは紙に書いて厨房に戻っていきますが、しばらくすると戻って来て、メイヨー(ない)と言います。同行した中国語の出来る後輩に聞くと、今日は出来ない、ということでした。何回か同じことを繰り返しているうちに、じゃあ、何が出来るの?と聞くと、周囲の人のテーブルを指さして、あの中から選べ、と言う始末。よく見ると、せいぜい4-5種類しかありません。その材料しか仕入れていないのか、それしか作れないのか、しかし、その中から選ぶしかありません。回鍋肉風のキャベツと豚肉を炒めたような料理が美味しそうだったので、それを注文しました。ところが、これが大アタリ。日本では経験したことのない味で、実にウマイ。メニューのどれかを尋ねると、炒白菜なんとかと書いてあります。白米はポソポソでイマイチだったものの、一緒に出てきたザーサイと豚肉の入ったピリカラ・スープ(ザーツァイルースータン)も実に美味しい。僕はこの組み合わせに、すっかりハマってしまいました。

翌日の朝食は中華粥でした。これも美味しかった。小籠包と焼売の中間のような中華饅頭もなかなかのもの。さすがは中国。中華料理の本場。と大喜びでした。そのときは。ただし、コーヒーはマズかった。少なくともコーヒーの香りと味ではない。その後は中国茶を飲むようにしましたが、お茶はマッタリとして、とても美味しかった。しかも、食事をすると無限お代わりが可能です。

朝食後ロビーに行くと上海から陸送されていたスーツケースと荷物が到着していました。ところが、僕たちの荷物は到着しましたが、半分ほどの参加者の荷物がありません。残りもすぐに来る、と言われましたが、結局、その日は到着しませんでした。荷物を受け取った参加者はバスに乗って会場へ行き、準備を始めます。荷物が来なかった参加者も会場に行きましたが、テーブルを並べるぐらいで何も準備できません。なぜ展示会がスタートする4日も前に現地入りするスケジュールになっていたのか、なんとなく分かるような気がしました。

昼食は会場の片隅で炒飯(のようなもの)が出ました。これがパサパサで喉を通らない。しかも、不味いうえに、何とも言えない(好みではない)臭いがする。付け合せの鶏肉(鴨?)も、味がしない。近所にコレといった食堂も見当たらなかったため、翌日からはタクシーでホテルに帰って昼食をとるようにしました。昼はバスが出ないのです。

タクシーは全部で7台。主催者が契約していたのでしょう、どれだけ乗ってもタダでした。台数が足りないので、有償でもよいからタクシーを増やしてくれと主催者に申し入れしたのですが、この7台が南京にあるタクシーのすべてでした。車種はトヨタ・カローラで、料金メーターなど付いていません。そもそも、タクシーそのものが珍しいらしく、市中へタクシーで出かけると、駐車するたびに人だかりでした。走っているクルマの殆どがトラックかバスで、乗用車、特に輸入車は極めて珍しかったのです。そこからスーツを着た人間が降りてくると、それだけで人だかりができます。南京滞在中、我々以外にスーツを着た人を見ることはありませんでした。朝夕、大きな通りは自転車で埋め尽くされ、ヌーの大移動のような自転車の大群に圧倒されました。

夕方、ホテルに帰って前日と同じ炒白菜なんとかという料理を頼みました。ところが、昨日はキャベツだったのに、今日は日本で言う白菜で、味もまったく違います。え?と思って厨房に聞いてもらうと、注文通りで間違っていないという返事。その後分かったのですが、月水金と火木土という具合に、このホテルには料理人が二人おり、作る人によって同じ料理名でも全く違う味だったのです。1週間ほどすると、何曜日には何を頼めばいいかが少しずつ分かってきました。僕はそれを表ローテ、裏ローテと呼んでいましたが、出てくる料理の数が少ないため、結局、最後まで何が「南京料理」なのか分からないままでした。

翌朝、残りの荷物が到着しました。要するにトラックは1台しか手配しておらず、思ったより荷物が多かったため2往復したようです。300キロという距離は、当時の道路状況やトラックの性能を考えると片道10時間近く掛かったのではないでしょうか。まあ、それでようやく全員が着替えと小物を受け取りましたが、今度は肝心の、先に船便で送った展示用大型貨物が着きません。主催者側の担当者が上海と連絡を取りましたところ、トラックではなく、貨物列車で送ったことが判明しました。今度は担当者が南京駅へ行って、いったい、いまどこにいるのか探してもらいます。それさえも、すぐに分からないのが当時の中国でした。

その日の午後、到着日も含めて3日目に貨物の所在が分かりました。なんと、2日前に南京の貨物操車場に着いていたのですが、上海から税関職員が来ないため、降ろすことが出来ないと言うではありませんか。当時の南京には税関など無く、上海から臨時で税管職員がやってくるのだそうです。それなら上海で通関すれば良さそうなものですが、日本から送ったコンテナを、そのまま列車に積んで南京まで持ってきたようです。再び担当者が電話を掛けまくったところ、税関職員もすでに南京に着いていることが判明しました。主催者から要請が無かったから、というのが通関に来なかった理由のようでしたが、いやはや、どうなっているのかと全身の力が抜ける思いでした。

翌日、4日目の朝から、ようやく駅で通関が始まりました。貨車からコンテナを降ろさず、直接コンテナから荷物を引っ張り出します。もちろん、作業は野天です。展示商品は基本的に「一時持ち込み」扱いでしたので、事前に提出していたリストに従い、アイテムと数をチェックしただけで、売れれば、買った側が輸入申告して税金を払えばよいということでした。ビックリしたのは課税された販売促進グッズ。会場でカタログと一緒に配るため、手提げのビニール袋、T シャツ、ボールペン、キー・ホルダーなどを大量に箱に入れて送ってあったのですが、メーカーのロゴが入った手提げのビニール袋に驚くほどの関税が課されてしまいました。確か、10円か20円のノミナル・ヴァリューに対し、50円ぐらいの税金だったと思います。当時の中国ではビニール袋は珍しかったのです。しかし、ノミナル・ヴァリューが300円か400円だったT シャツの税金は、15円か 20円でした。素材が綿であり、中国では綿製品が安かったため、輸入してもまったく競争力などありません。したがって、関税を下げても輸入そのものが無いに等しい状況だったようです。駅から会場まで運ぶトラックへの積み込みは、すべて人力です。フォークリフトなんてシャレたものはありません。某メーカーが持ち込んだ予備発電ユニットなど1トン近くあります。これを棒に紐を通し、小さなチェイン・ブロックを使いながら10人ほどが寄ってたかって20-30cmぐらいずつ移動させ、ようやくトラックに載せますと今度はトラックの荷台が沈み込み、タイヤが泥除けに当たってトラックが動けません。それでも、どうやって運んだのか、夕方には会場に到着していました。結局、コンテナ2本分の通関と移送に、その日の夕方まで掛かってしまいましたが、あのとき現金(外賓元)で支払った税金は、本当に国庫に入ったのだろうか?会場のセットアップが終わったのは、到着日を含めて4日目の深夜でした。主催者の読みは正しかったということです。

翌朝、全員睡眠不足でフラフラのなか、ちょっとしたセレモニーがあり、展示会はスタートしました。いやはや、来るわ来るわ、会場はギッシリいっぱいです。しかも我々のブースに設置したビデオ一体の大型プロジェクターは人だかり。なにせ共産国です。何のビデオを流せばよいのか分からなかったので、あたり障りのないアニメや風景を流していたのですが、相撲を流したとたんに人の流れが止まりました。激しい当たりあいから大技で投げ飛ばすと、拍手喝さいです。ビデオという概念がなかったのでしょう、中国のどこかから中継していると思ったようです。相撲を流し始めると、他社のブースからお客がいなくなるため、あまり相撲を流さないでくれと言われてしまったほどです。カタログを入れたビニール袋を配ると、人が押し寄せます。殆どの人が会場を出るとカタログを取り出し、丁寧にビニール袋を折りたたんで持って帰ります。隣のブースの人に聞くと、彼らは仕事で来ているため、カタログは所属する部署に持って帰らなければなりませんが、ビニール袋は自分で持って帰るのだそうです。当時の南京では、シッカリした厚手のビニール袋は超人気アイテムでした。一般の人が入れる日には、さらに人が増えます。カタログを配っても彼らは購入できませんので、一般公開日にはT シャツやボールペンを配りました。そりゃあ、もう、黒山の人だかりで、押すな押すな状態になります。ですから、人の多い時間帯には配れません。これじゃ1カ月どころか1週間で販促グッズが無くなると思い、1日に配る量を制限したところ、誰かに聞いてきたのでしょう、何度もビニール袋や販促グッズはないのかと聞かれました。

その時、気が付いたことがありました。来客のほぼ全員が人民服でしたが、人民服のズボンに折り目が付いた人がほとんどおらず、折り目の付いたズボンをはいている人は、お付きを何人か引き連れた党幹部か軍幹部か、要するに「おえらがた」だったのです。あとから上海に戻って観察すると、上海では、そのへんの若人でも折り目の入ったズボンをはいていました。それだけ南京は田舎だったというか、上海は都会だったのです。川沿いの公園を歩いていても、カップルが手を繋いで歩いていたぐらいです。

最初の休日には南京側の主催者が希望者を観光ツアーに連れていってくれるとのことでしたが、いわゆる観光地に一切興味のない僕は、午前中だけ参加しました。中山陵(孫文の墓陵)と長江大橋に行きました。明の都だっただけに多くの仏閣や遺構もあるのですが、それよりも「大きなもの」を見せたかったのでしょう。いずれも1分で飽きてしまいました。そこで午後はいつもホテルで飲んでいるお茶をお土産に買いたいと思い、ホテルの人にお茶屋さんの名前と簡単な地図を書いてもらいました。意外なことに行動は全く自由で、何の規制もありませんでした。出遅れたためタクシーは使えませんでしたが、それほど遠い距離でもなく、特に予定もなかったため歩いて行きました。しかし、南京には高い建物や山など目印になるものがありませんので途中で迷ってしまいました。どの通りも同じに見えてしまうのです。そこで途中のお店でホテルで書いてもらった紙を見せて道を尋ねると、通りがかりの人が7-8人集まってきて、その中の一人がお茶屋さんまで連れて行ってくれました。

南京でもっとも古くからあり、聞き違いでなければ100年以上の歴史があるという、その店には驚くほど多くの種類のお茶があり、しかも、良いものは日本人の感覚からしても、極めて高価。当時の南京で、誰がそんな高価なお茶を買うのか不思議に思ったぐらいです。日本から来たと言うと、店主は片言の日本語と筆談でお茶の種類や加工方法の違いなどを延々と教えてくれ、しかも次々と試飲させてくれました。日本とは違うお茶の香りや味にも驚きましたが、中国茶の作法や奥深さに目から100枚ほど鱗の落ちる思いでした。結局、店主に美味しいと勧められたウーロン茶を買って帰ったところ家族にも熱烈大好評。それが無くなったあと日本で、サラリーマンとしてはそこそこ張り込んだつもりでコマシな中国産のウーロン茶を買いましたが、まったく別物と思えるほど味と香りが落ちました。やはり、当時、日本に良い物は入っていなかったのでしょうね。とはいえ、このとき以来、いまでも、我が家では毎朝お茶を炊いて常に冷蔵庫で冷やしておくのが習慣になりました。

お茶屋さんを出たあと、ホテルへの帰り道にあった玄武湖公園に立ち寄りました。いまは市民の憩いの場、あるいは観光地として整備されているようですが、そのときは「前に写真で見たのと同じだ」と思っただけで、すぐに飽きてしまいました。帰ろうとすると、橋のたもとにリヤカーで甘栗を売っているオジサンがいました。共産国で個人が商売しているというのも少し意外でしたが、甘栗は好物でしたので買いました。何を言っているのかサッパリ分からず、取り敢えず外賓元を出しました。お茶屋さんでは何の問題もなく受け取ってくれたからです。ところが、オジサンは外賓元を見たことがなかったらしく、周囲の人に「これって何?」みたいなことを尋ねたのでしょう、いつの間にか10人ほどが集まってきて、ああだ、こうだ、が始まりました。いやまあ、マイッタな、とは思ったのですが、彼らが結論を出すのを待つしかありません。すると、ちょっと小奇麗な服を着た人が通リかかって、これは外国人用の紙幣であり、銀行へ行くと人民元に交換してくれる、というような説明をしたようです。それを聞いて安心したのか、大きな袋にありったけの甘栗を詰め始めました。ビックリした僕は、少しで良いと言ったのですが、どうやらおつりがないと言っているらしく、結局、大きな袋いっぱいの甘栗をホテルに持って帰りました。ホテルに帰って、その話をすると、僕が出した紙幣は日本円で800円程度だったのですが、どうやら甘栗は小さな袋いっぱいで10円ほどなのだそうです。顔見知りの方全員に甘栗を配りましたが、それでも大量に残った甘栗を腹いっぱい食べたため、翌日はお腹が張って困ってしまいました。そういえば学生の頃、台湾の基隆港でライチを買ったところ山のように袋に入れてくれて食べきれなかったことがありました。あとで気が付いたのですが、ライチはそのあたりに普通に生えていて、取り放題だったのですよ。ベネズエラでも大きな通りの街路樹がアボガドで、取り放題でした。

次の休みの日には、これもホテルの人に教えてもらい、印鑑を作りに行きました。甘栗での経験がありましたので、ホテルの人に外賓元の説明を書いてもらい持参しました。何種類か素材がありましたが、頭に掘り物のある硬い蝋石のような石を選び、僕の姓と家内の名の印鑑をペアで作ってもらいました。数日後にホテルまで届けてくれましたが、さすがは漢字の国。中国の旧字体を使った印鑑はなかなか雰囲気がよく、しばらく実印として印鑑登録していました。落としてカドが小さく割れたため、何ミリか短く削って同じ文字を彫ってもらおうと思いましたが、石に印鑑の文字を彫ってくれるところが見つかりませんでした。

前の週に半日、街を歩いたため、市内中心部のおおよその地図は頭に入っていました。昼は大きな市場の中で発見した食堂というかラーメン屋でラーメンを食べました。全員が同じものを食べているのでメニューは1種類だったようです。といっても日本で食べるラーメンとは全く雰囲気が違い、野菜がドッサリ入った、言うならば、スープの少ないチャンポンというか、麺の入った野菜炒めと言うか、これがまた美味しいうえに、15円ほど。麺は少し分厚い「きしめん」のような平麺で、もっちりした食感でした。しかし、八角ともパクチーとも違う独特の香りは何だったのだろう。

食後、少し歩いていると「お箸」を売っている店を見つけました。中に入ると紫檀風の箸がありましたので、それを10セット購入。ふと見ると、その横にはさむ側の半分が象牙で、握る側の半分が紫檀と思しき箸が展示されていました。我が家には象牙の中国箸が家族の人数分、5セットありましたが、折れたのか、1セットだけ短く削ってありましたので、揃った箸が欲しいと思いました。価格を聞くと、1セット2,000円少々。象牙ですので当時の日本人の感覚から言っても格安なのですが、当時の南京では労働者の平均月収が4,000円から5,000円と聞いていましたので、今の日本の価値観からすれば1セット7-8万円の感覚だったのかもしれません。それを5セット欲しいと言ったところ、いかにも古そうな木の箱から出してくれました。筆談によれば、どうやら当時のものではなく、少し古い年代のものだったようです。同じ箱に入っていた3cmX25cmほどの紫檀に美しい貝の象嵌が入った、いまだに何に使うのか分からない置物(?)が気に入ったので、それも模様違いで2本買いました。おそらく、筆で巻紙に手紙を書くとき、書く部分の左右に置く文鎮ではないかと想像するのですが。ご存知の方がおられましたら、ご教示ください。しかし、このとき買った象牙の箸は使っていると真ん中の継ぎ目(差込式)がポロっと外れて使いにくいため、いまではこれも飾り物です。10セット買った紫檀風の箸は実に丈夫で長持ちし、10年以上、毎日使いました。我が家の子供たちは、この中国箸で育ちましたが、慣れると先まで四角い中国箸は使いやすいのですよ。後年、息子が中国の学会に出席するというので、同じものを買ってくるように頼みましたが、どこを探しても紫檀風の箸は発見できなかったようです。伐採しすぎて材がなくなったのか、伐採禁止になったのか、そのとき息子が買ってきた中国箸は1-2年で反ってしまい使えなくなりました。こういった自然の材料を使ったものは、国内外を問わず、昔の方が質が良かったように思います。

そうそう、ホテルの各フロアというか廊下の端には女の子が2人ずつ配置されており、お茶を頼んだり、洗濯を頼んだり、部屋の掃除などもしてくれました。これも、食堂の料理人のように、月水金組と火木土組のように、二つのグループがあるようでした。結構、コマメに世話をしてくれますので枕元にチップを置きましたが、絶対に受け取りません。そこでT シャツとボールペンをビニール袋に入れて差し上げました。それも、最初は受け取りませんでしたが、あとからコソっと部屋にやってきて、受け取っていきました。そばに誰かいると、絶対に受け取らないのです。しかし、翌日から違う組の人や、他のフロアの人が順番にやって来て、結局はホテル中の女の子全員に配る結果になってしまいました。何度か中国に来たことのある参加者に、そういうことは絶対にしてはいけない。結局は全員に配ることになる、と言われました。とはいえ、すれ違うと、いつもニコニコ。丁寧なルーム・クリーニングや洗濯などなど、快適な滞在になりました。

最後の休みの日には南京博物院に行きました。銀縷玉衣(銀縷玉衣というのは今の呼び方のようですが、昔は銀糸玉棺と習ったような気がします)が見たかったからです。これは翡翠を銀の糸で人間の形のようにした棺で、当時は南京博物院でしか完全な状態を見ることができなかったと思います。我々の休みはウイークデイでしたので博物院には訪問者もおらず、僕一人でした。いまは立派なケースに入り、周囲に詳細な解説も展示されているようですが、当時は粗末なガラスケースの中に置いてあるだけで解説もなく、下面に近い部分は破損したままでした。ケースの前でじーっと眺めていたら、人民服を着た老人がやって来て、日本語で「日本人ですか?」と聞いてきました。僕は少し驚き、長い間、ずっとこれを見たいと思っていた、と言いますと、今日は誰も来ないから、と言ってガラス・ケースを開けてくれ、流暢な日本語で細かく説明してくれました。聞けば、彼は学芸員のような立場の方で、戦前は早稲田大学に留学したそうですが、それだけに、おそらくは波乱の人生だったのではないかと想像します。南京博物院には膨大な展示品があったはずですし、多少は見たはずですが、銀縷玉衣以外の記憶は一切ありません。僕は許可を得て写真を撮りまくり、高校の担任教師だった高井悌三郎先生に送りました。

先生は調査主任として伊丹廃寺の発掘に携わられ、日本史の教師であると共に著名な考古学者でもあられましたが、中国の歴史にも造詣が深く、銀縷玉衣が南京にあることは先生から教えてもらいました。私の通った学校は中学・高校一貫教育で、中学の3年間、高校の3年間を、それぞれ一人の教師が担任になります。我々のクラスは先生が教師生活の中で唯一度だけ担任になったクラスでした。それだけに卒業後も繋がりは強く、先生が退任されたときは僕がクラス会の幹事でしたので、クラス全員に呼びかけ、先生と奥様に中国への往復航空券と滞在費をプレゼントし、某有名旅行代理店の親会社に勤務していたクラス・メイトが旅程を手配してくれました。当時、蒋介石が持ち出した宝物は台湾で見ることができましたが、中国本土、特に地方都市に残った宝物を見ることは日本人にとって簡単ではなかったからです。

博物院からの帰り道、ふと路地の奥を見ると、小さな市場のような場所を見つけました。まだ時間もあったので立ち寄ったところ、そこは当時普及し始めていた自由市場でした。道端にリンゴ箱のような箱を置いて、その上に様々な物品を置いて販売していました。大きな店はなく、それぞれが1種類か2種類を、それも2個か3個置いて販売するといった感じでした。よく見ると、熟し柿が2個置いてありました。僕は、毎年秋は必ず海外出張でしたので、日本の秋の果物や食品には何年も縁がなかったのです。喜んでその柿を買い、甘栗の経験がありましたので、お釣りでもらった少額の人民元を出しました。ホテルに持って帰り、食後に食べたところ、甘くないというか、味がしないというか、味が薄いというか、期待が大きかっただけにガッカリしました。その話を中国滞在の経験がある人にしますと、中国の柿は見た目は日本の柿に似ているものの、日本のように品種改良されていないため原種に近く、だから美味しくないのだそうです。

やがて展示会も終わり、持って行った製品だけでなく、公団へテレビやビデオ、ラジカセなど多くの製品を販売することが出来ました。バンバンザイです。最終日の夜に中国側担当者や南京市の偉いさんを招待して、パーティーが開かれました。北京ダックやアワビ料理などが豊富に振る舞われた、超豪華な食事でした。しかしながら、味の方は何かピンとこない。マズイとは言いませんが、感動するほど美味しくはないのです。アワビだってトコブシ・サイズです。結局、南京では僕の想像していたような中華料理は一度も食べられませんでした。やはり食事なんてものは贅沢しないと、味と言うか、味覚自体が失われてしまうものだということを痛感しました。腕のいい料理人は、みんな上海に行ってしまったそうです。バブルの頃、香港の優秀な料理人がみんな高給で日本に引き抜かれたのと同じですね。

帰りは、できれば鉄道で上海まで出たいと思い申請しましたが、途中に軍事地帯があるということで許可になりませんでした。しかし、上海までの帰りの飛行機は、これまたレアなホーカー・シドレー・トライデントで中国には1970年代前半に数機が販売されています。トライデントはB-727に負けて、わずか117機で生産終了したのは、技術の差というよりは、国力の差だったように思います。しかし導入当時、中国はソ連と仲が悪かったため、ジェット旅客機が買えたのは、唯一、共産中国を承認していた英国だけでした。トライデントは、当然ながらBAEが運航していましたので、欧州では何度か乗ったことはありましたが、まさか中国で乗るとは思いませんでした。日本線にも就航していたはずですが、見たことはありません。そういえば、毛沢東の専用機がトライデントで、最近まで中国のどこかで保存されていたはずですが、どうなったのでしょう。

東京への飛行機の都合で、上海で1泊することになりました。当時は指定された旅行社や窓口でしかホテルの予約が出来ませんでしたので、仲良くなった展示会の主催者(南京市の役人)を通じ予約しました。南京出張中は、夕食以外の経費すべてが事前に会社が振り込んだ参加費用に含まれていましたので、出張手当が浮きました。張り込んで「上海で最も高級なホテル」をと言って予約しましたが、夕方、上海空港へ着くとビックリ。待っていたのは女性のツアー・ガイド兼通訳とショーファー付きの「上海」というメーカーの中国製自動車でした。荷物を積み込み、ホテルに向かったのですが、なぜか運転手は交差点以外はヘッドライトを消します。当時の中国製バッテリーは充電能力が低く、点けっぱなしだとバッテリーが持たないからだと聞きました。街中でも表通り以外には街灯すらありませんので、暗くても見えるとのこと。向かった先は元英国領事館の公邸だった建物で、門を入ると中はまるで英国そのものでした。南京市の役人が気を使ってくれたのでしょう。玄関を入ると左右に大きな螺旋階段があり、我々の部屋は2階でした。天井は高く、ベッドも英国領事館だった時のままです。これには感動しました。よく文化大革命で毀損されなかったものです。

事前に「上海で最も美味しい中華料理が食べたい」と言ってありましたので、荷物を放り込んだら、そのままレストランに向かいました。とてもオシャレなレストランで、さすがは上海、大都会です。メニューも中国語の下に英語表記があります。ガイドの方もお誘いしましたが、客と一緒に食事をしてはいけないのがルールだと言われました。中国出張最後の夜ですし、「美味しいもの」に飢えていましたので、アレやコレや、山のように注文しました。そして出てきたものを見てビックリ。大きな机にギッシリと料理が並びました。1品ずつが大皿で、とても食べきれません。特に、北京ダックは皮だけだと思っていたのですが、皮を切り取ったあとの鳥を料理したものがドッサリ出てきました。いまでは中国で北京ダックというと、それ自体がコース料理だというのは常識かもしれませんが、当時、これは知りませんでした。結局、食べきれず「お持ち帰り」にしてもらい、ガイドの方と運転手君に差し上げました。しかし、ここの料理は何を食べても美味しかった。同じ中国でも、これだけの差があるというか、上海は大都会だというのをつくづく感じた次第。ちなみに、我々が泊まったホテルは朝食も完璧なイングリッシュ・ブレックファーストで、紅茶と暖かいミルクを同時に注ぐ英国式ミルク・ティー、好みの卵、焼きトマト、マッシュルーム、ソーセージ、フルーツ。スコーンだって焼きたてでした。食後に本館前の芝生で寝転がって後輩と話していると、紅茶とビスケットを持ってきてくれました。南京のホテルとは天地の差というか、ここは本当に中国か?と思うほど。この建物は最近改修され、レストランや様々なショップが入るそうです。戦前の建物を保存/補修して観光地化することで街の活性化を図る国と、旧宗主国の建物だからという理由だけで跡形もなく破壊してしまう国。考え方も、国のありようも様々ですね。

先日、テレビで南京市内の景色を見ました。街の景観は38年前とは様変わり。記憶にある景色は玄武湖公園の池ぐらいでした。すっかり変わってしまい、まるで別の都市のようになってしまった南京。この38年は日本の戦後38年に相当するほど社会が激変したのでしょう。あのお茶屋さんは、まだあるのだろうか。