思いでのクルマ 1954 VW type 1

フォルクスワーゲン タイプ1、いわゆるビートルは僕が明確に記憶している最初のクルマだ。それ以前にも父はクルマを所有していたようだが、写真も残っておらず、明確な記憶もない。

様々なメーカーから設計だけを請け負う自動車設計事務所を経営していたフェルディナント・ポルシェが、政権を奪取したばかりのアドルフ・ヒットラーに自身の国民車構想をプレゼンテーションしたのは1934年だった。自身では運転しなかったもののクルマ好きだったと言われるヒットラーはポルシェの提案を気に入り、第一次大戦の結果、オーストリア国籍からポーランド国籍になっていたポルシェにドイツ国籍を与え、国民車の設計契約を結んだ。しかし、国民車構想自体はポルシェが独自に発想したものではなく、すでに交通省により基本プランや目標性能が出来上がっていた。国民車は Kraft durch Freude という組織の頭文字をとり、KdF車と呼ばれた。Kraft durch Freude を日本語でどう呼ぶのか分からなかったので調べたところ、歓喜力行団と書いてあった。この言葉を聴いて何をする組織なのか理解できる人は、いったい何人いるのだろう。実に不思議な翻訳だ。英語にすると Strength through Joy。直訳すると「喜びによる力」と言う意味で、たしかに、これを日本語に直せと言われると悩んでしまう。要するに国民がどうやって余暇を楽しむのかを企画し、実行する組織で、保養施設やクルーズ船まで持っていたようだ。日本で言えば旧厚生省の国民休暇村のようなものだろうか。しかし、労働者にとって自家用車など夢のまた夢だった時代に、雇用対策としてのアウトバーン構想と共に、「すべての労働者が自家用車を持ち、週末を楽しみに出来るように」とブチ上げたヒットラーに国民が熱狂したことは言うまでもないだろう。

時代を超越したクルマであったことは間違いないが、意外なことに、ポルシェ自身が開発したメカニズムは前輪サスペンションぐらいで、あとはすべて既存のメカニズム、あるいは公開された技術の組み合わせだった。空冷リア・エンジンというコンセプトもベラ・バレニーがウイーン工科大学の卒業論文として1925年に発表したものだ。ちなみに、ベラ・バレニーは後にダイムラー・ベンツに入社し、2500件を越える特許を取得して自動車の発展に大きく貢献した。亡くなったのは1997年だが1994年には米国の自動車殿堂入りを果たしている。ついでに言えば、カブト虫スタイルも彼の発想ではなく、ボディを流線型にして空気抵抗を下げるというのは当時の大きな流れだった。空気抵抗係数(Cd値)の考え方が航空機から自動車へ降りてきた結果だ。事実、ポルシェが国民車を設計する前にNSUの依頼で設計したクルマは国民車にそっくりだったし、シュタイヤーやタトラも同一のコンセプトだった。特にタトラは戦後、国民車をフォルクスワーゲンとして再生産したのを受け、デザインやコンセプトを盗用し、政治的にタトラを生産中止に追い込んだとして訴訟を起こし、当時の金額で300万マルクを受け取った。僕は英国で一度だけ Styer 50(Baby)を見ている。実物は写真より遥かに可愛いデザインで、いま、このデザインをモチーフにしたクルマを出せば、きっと売れると思う。

よくスバル360をワーゲンの劣化コピーだと悪口を言う人がいるが、コンセプトにしてもメカにしても、戦前・戦後を通じて多くのメーカーが採用したものであり、劣化コピーなどと謂れなき誹りを受ける所以はない。それどころか、1950年代のモノも技術も経験も不足していた時代に、スバル360を製品化した開発陣の努力は賞賛に値する。困ったのは、車高が低くサスペンションが軟かったため、後席に人が乗ると、ちょっとした轍で腹を擦ってしまうことだった。腹が引っかかってリア・ホイルが空転すると、後席の人が降りて左右のリア・フェンダーを持ち上げて荷重を減らすと超えることができた。当時は街中でも未舗装の道が少なくなかった時代だ。


NSU32

Styer-Baby

Tatra T97

Subaru 360

国民車の試作車開発が予定より1年以上長く掛かったのは、1,000マルク以下という価格設定が原因だったのではないだろうか。当時の平均的なドイツ人労働者の月収は250マルク程度であり、同クラスの自動車は1,500マルク程度であった。しかし、ポルシェには、いかにコストを削減しても、品質や性能、あるいは乗り心地や耐久性で妥協したくないという設計者としての意地があったのだろう。最終的な販売価格は950マルクに決まった。

3台の最終プロトタイプがダイムラー・ベンツの工場で完成したのは1936年10月。年末まで様々なテストが行われたが、それで終わらなかったのが、いかにもドイツ人らしい手堅さだった。早速、30台(追加試作も入れると70台以上)のテスト用試作車が生産され、ドイツ軍親衛隊から選抜された120名のドライバーにより国内のあらゆる道路で実走行による耐久テストを行った。この耐久テストや細部の改良作業に費やされた費用は3,000万マルク以上と言われ、目標販売価格の実に3万台分以上にも達する。現在に至るまで例の無い、まさに空前絶後の費用を掛けて技術を確認し、実証し、熟成したのだ。いまだにポルシェによるタトラ盗作論が消えないが、少なくともタトラはこれほどのテストや改良を行わなかっただろうから、製品としての出来や耐久力は国民車に及ぶべくもないだろう。スケジュール遅れで何度もポルシェの責任を問おうとした幹部からポルシェを守ったのはヒットラー自身だった。何度も会食したり、自分が菜食主義者にもかかわらずポルシェのために肉料理を用意させるなど、どうやらヒットラーは同じオーストリア=ハンガリー帝国出身ということもあったのか、ポルシェのことが気に入っていたようだ。

KdF Prototype

KdF First Production

生産に先立ち、ポルシェは米国フォード社の工場を訪れて量産技術や設備を仔細に見学し、様々なアドバイスを受けた。フォード社がドイツまで技術者を派遣したと記載する資料もある。その協力に感謝するためだろうか、1938年7月に、ヒットラーはヘンリー・フォードに星章付ドイツ鷲大十字勲章を贈っている。しかし、これはフォードが強烈なアンチ・ユダヤだったことも理由のひとつだったのかもしれない。想像を絶するテストと、当時としては先進の量産技術で生産に移された国民車、のちのフォルクスワーゲン・タイプ1は、結果として名車になったのではなく、「生まれながらの名車」だったといえる。しかし、1939年、500台のファースト・ロットのうち、わずか210台を生産した時点で生産は打ち切られた。第二次大戦が始まったからだ。生産された210台はすべて政府関係組織に振り分けられ、ベルリンの日本大使館にも1台支給された。国民車の生産設備や資材は、すべて、同じプラットフォームを使った軍用車、キューベル・ワーゲンに振り替えられた。最初から「国民車」は簡単に「軍用車」にできるよう設計されており、自家用車が買えると思いセッセと週5マルクをKdFに積み立ててた多くのドイツ国民にとって、まさに国家による壮大な詐欺となった。国民車は1台も国民の手には渡らなかったのだ。独裁者で知られる某国の3代目ですら、ここまでヒドイことはしない。戦後になり、国民車をフォルクスワーゲンとして再生産し始めると、多くのドイツ国民がフォルクスワーゲン社に対し訴訟を起こした。

Kübelwagen

第二次大戦直後に工場を接収したのは米軍だった。しかし、米国本土は戦禍を受けておらず、ドイツの自動車メーカーには興味が無かったのだろう、米軍は工場の処理を同じ占領軍の英軍に丸投げしてしまう。英軍で担当者に選任されたのがアイヴァン・ハースト少佐。工場を整理したところ幸運なことに不発弾が多く、生産設備の多くが助かっていた。当時ベルリンに技術者として派遣されていた佐貫亦男氏の著書によれば、この工場は戦時にもかかわらず迷彩も施されておらず、格好の攻撃目標になったはずだ。それにもかかわらず、多くの生産設備が破壊されず残っていたのは、連合軍がこの工場を戦況に大きな影響がないと判断していたためだろうか。当初は生産設備を分解して英国に運ぶ計画になっていたものの、英国にも引き受ける自動車メーカーがなかった。ドイツ車という以前に、ビジネスの視点から、簡素な国民車など売れないと判断したのではないか。北から攻め入ってきたソ連はオペルの工場を接収し、オペル・カデットの生産設備を持ち去った。しかたなく工場の設備を整備し、そのまま国民車の生産再開を目指したものの、肝心の売り先に困ってしまった。そこでハーストは駐留先で軍用車が不足していた英軍を説得し、英軍向けに2万台の注文を出させた。そのまま歴史の波間に消えていても不思議の無かった国民車はハーストの交渉力と実行力、そして英軍に救われた。主要な生産設備が生き残っていたため工場の整備は順調に進み、1945年末までに1,785台を生産、翌年の3月には月産1,000台に達した。

1945 Volkswagen Type 1

1940年代末からはオランダを皮切りに輸出が始まり、国民車はフォルクスワーゲン、工場のある町はヴォルクスブルグと名前を変え、更なる改良が加えられたフォルクスワーゲンは1955年までに100万台を生産した。同じ価格帯の他車より高性能だったのが理由だが、特に、1960年代に入り米国で爆発的に売れたのを見て、当初は興味を示さなかった英国の自動車メーカーは自らの不明と慧眼の無さを悔やんだに違いない。フォルクスワーゲンが稼いだ膨大な外貨が戦後の西ドイツ経済復興に大きく寄与したことは言うまでもなく、まさしくヒットラーが残した偉大な遺産だった。

日本へは1953年、梁瀬自動車によって輸入開始された。日本に正式輸入され、販売されたものはスプリット・ウインドウではなく、すでに小さなオーバル・ウインドウになっていた。

そのフォルクスワーゲンを父が買った。僕がワーゲンの横に立っている写真に「4歳半」と書いてあり、僕が1950年5月生まれなので1954年暮れ頃の撮影だろう。いまとサイズの違う横長のナンバープレートは「大5-8692」だ。ということは、大阪全域ですら自家用小型自動車は1万台以下だったということだ。本当は同じフェルディナント・ポルシェの立ち上げたポルシェ356が欲しかったようだが、さすがにポルシェには手が届かなかったと聞いた。しかし、調べるとワーゲンが特に高価だったというわけではなく、国産車で最も安かった日野ルノーが73万円だったのに対し、ワーゲンは74万円だった。とはいえ大卒初任給が1万円以下だった時代なので、現在の感覚だと1500万円程度ではないだろうか。当時は小さな家だと100万円で買えたそうなので、クルマを買うということ自体が、かなり思い切ったことだった。

父の勧めで母も免許を取ったが、当時でも女性が免許を取るということは極めて稀だったようだ。しかし、母が自動車を動かしたのを見た記憶は、あとにも先にも一度しかない。庭でキャッチボールをするのにワーゲンが邪魔だったため、母に動かしてもらったのだが、母はワーゲンで隣地との境界に植えてあった生垣に突っ込んでしまった。しかし、母は65歳を過ぎるまで免許の更新だけは忘れず行っており、免許の種類が細分化されるたびに格上げされたため、いつの間にか母の免許は「大型二種」になっていた。晩年、母がその免許を人に見せると皆さん「バスの運転手でもしておられたのですか」と驚かれ、母はそれが楽しかったようだ。

父は戦前・戦中の経験からかドイツ技術の信奉者で、カメラもカール・ツァイス付きのコンタックスだった。確かにシンクロメッシュを備えた父のワーゲンは良く走り、六甲山を登っても、多くの国産車がオーバーヒートしているのを横目にスイスイと登っていったものだ。信じられないかもしれないが、当時の国産水冷エンジン車は六甲の山を登ると、多くが途中で「ひと休み」しなくてはならなかった。いまは展望台になっている場所は、バスがエンジンを冷やすためのスペースだった。

父はいまで言うテッチャンだったが、乗り鉄ではなく、どこへ行くにもクルマだった。物心付いたときからそれが普通だったためか、僕もそうなった。どこへ行くのもクルマだ。そしてそれは僕の子供たちにも引き継がれた。少し前に、何年かぶりに電車に乗る機会があったが、切符の買い方が分からなかった。関西の私鉄は、最近、相互乗り入れが増えたため、券売機の表示が理解できなかったのだ。券売機の前で路線図を見上げてボーっとしていたところ、親切な方が Can I help you? と声を掛けてくださった。

8年後に父はフォルクスワーゲンを知人に譲ったが、8年間、雨ざらしだったにもかかわらず、ボディに錆が全く無かったことが印象的だった。