1980年の秋、僕は旧西独側でベルリンの壁の前に立っていました。その日の午後、ブルガリアのソフィアからウイーン経由のルフトハンザB737-100で西独側のベルリンに入りましたが、タラップを降りると、いまにも落ちてきそうな重い雲が僕の心を陰鬱にさせました。東側の国、社会主義の国に入国するという気の重さもあり、落書きが一面に書かれた無機質な壁を見ながら、もし同じ壁が東京の真ん中に立っていたらと考えました。
僕の卒業論文は南北(東西)経済問題でした。いかにして国が二つに分かれたのか。同じ民族でありながら、同じ文化基盤や技術基盤を持ちながら、わずか30年ほどの間に、なぜ南北、東西で大きな経済格差が生まれたのか。イデオロギーが人間を、そして社会を変えていく過程を、経済を切り口に検証したものでした。
同じ民族が銃を持って向かい合う。どんな気持ちで相手側を見るのだろう。あとわずか数ヶ月、日本の敗戦が遅れていれば、いま目の前にしている現実は日本のものだったかもしれない。東側から壁を越えようとする日本人を後ろから日本人が狙撃する。それを目撃した西側の日本人は何を思うのか。原子爆弾を落とされず日本が東西に分断されたのと、原子爆弾を落とされて分断されなかったのと、どちらが良かったのだろう。そんな取り止めのないことを考えながら、しばらく壁に沿って歩いていると小さな瓶に数本の花が生けられているのを見つけました。何があったのだろう。明るく活気ある喧騒のなかをホテルに向かって歩きながら、ドイツに比べれば、米国に占領された日本は幸運だったのかもしれないと思わずにいられませんでした。
30年以上も前の個人的な記憶の断片を集めたものですし、あくまでも僕個人の理解と見解ですので、誤解や誤記もあると思います。また、日本から見た状況と、現地での実情には大きな乖離もあると思います。その点は善意をもって、ご理解いただきますよう、お願いいたします。
ベルリンを訪れたのは旧東独のライプツィヒで行われた、いまで言えば産業博のようなイヴェントに某商社が僕が勤務していたメーカーの製品を出品したからです。
ライプツィヒでは、なんと15世紀から継続してメッセが行われており、それは東西ドイツに分裂してからも続いていました。東西冷戦の中、ライプツィヒ・メッセは東側に日本製品を紹介し、たとえ少数であってもビジネスを行う数少ないチャンスでした。コンスーマー商品に関してはビジネスというよりは広報活動のようなものでしたが、放送局用のプロ器機には連日、多数の引き合いがありました。局用器機は編集用のコンソールまで入れると、すぐにロールス何台分かになりますが、COCOM(共産国向けの輸出規制)がありましたので、ちょっとしたシステムは殆どアウトでした。器機に使われている半導体や素材をコピーされると軍事転用できたからです。
ライプツィヒへは西ベルリンまで飛行機で飛び、レンタカーを借りてチャーリー・ポイントを通り、アウトバーンでライプツィヒまで走るのが最も効率的、かつ確実なルートだと判断しました。当時、東独の列車に乗ると途中で突然停まり、何の説明もないまま1時間も2時間も動かない、なんて事があると聞いたからです。借りたのはオペル・セネター。セネターを選んだ理由は、同じクラスのBMWやメルセデスより荷物が多く積めたからです。セネターは当時のオペルでは最上級車種で、BMW 5 シリーズとクラス的には同格でしたが、走りは比較にならないほど重かった。ちなみに、個人的には日産の初代レパードのデザイン、特にBピラーやリアまわりはセネターのパクリだったのではないかと思っています。
東独といえばトラバントです。1950年代の東独で生まれ、細かい部分は進歩していますが、基本的に変わることなく1991年まで生産されています。第二次大戦後、ロシアにオペルの生産設備と治具を持ち去られ、設備も資材も何もない状況で作ったクルマです。当時の日本車に比べれば良く出来たクルマではありますが、それを1991年まで引っ張ったというのは驚き以外の何物でもありません。2気筒2ストローク・600cc・23hpのFFですが、後年のドア・パネルは段ボールに樹脂を貼った構造だと聞いてビックリ。路肩に駐車していたトラバントのドアを指でコンコンと叩いてみると音が軽いので、少なくとも鉄板ではありませんでした。下を覗いてみると、足回りなどなんともシンプルな構造で、なんとラダー・フレームです。ガソリン・タンクが見当たらず、あとで調べるとエンジン・ルーム内にあるとのことで再びビックリ。これで正面衝突すれば、まず、助かりません。こういう国では、人の命は安いのです。2ストですのでガソリンにオイルを混ぜます。街に立ち込める臭いの元は、どうやら低質ガソリンとトラバントだったようです。ところで日本にも輸入されたことがありましたが、世界中の、どの安全基準もクリアできないのに、どうやって車検を取得したのでしょうね。不思議。
到着日は西ベルリンで宿泊し、近所のスーパーでお買い物。クルマなので、一杯買い込めます。ライプツィヒではホテルではなく、会社の先輩に紹介してもらった民宿(朝食付き)に泊まるからです。そのほうが安い上に気楽だし、少々夕食で豪遊してもオツリがきます。まずはトレペ。旧ソ連もそうでしたが、東側のトレペは硬い。バスクリン(のようなもの)も必需品で、お湯だけで入浴すると肌がカサカサになります。それと、お菓子と果物をドッサリ買い込みます。自分の分もありますが、主に民宿オーナーへのオミヤゲです。同じく、ブースを手伝ってくれる女の子達へのオミヤゲにパンストを2ダースほど。これも先輩から教えてもらったもので、当時、東側の国では、たいへん喜ばれました。僕は持って行きませんでしたが、リーバイスのジーンズやナイキのスポーツ・シューズをプレゼントすると、うら若き女子が自宅に招待してくれると聞きました。
チャーリー・ポイントでは強制的に西独マルクを東独マルクに、1日当たり何マルクX日数で強制的に交換させられました。もちろんレートは1:1ですが、そのときのレシートを保管しておき、帰りにまたチャーリー・ポイントで西独マルクに同じレートで交換してもらわなければ、東独マルクは西独ではゴミ同然です。ちなみに、ドイツ再統一のときも1:1で交換したためマルクは急落し、貨幣統一だけでも西独は膨大な負債を抱えました。
チャーリー・ポイントを抜けた瞬間、街並みの雰囲気がガラっと変わります。クルマの数が半分以下に減り、建物は古臭くキタナイ。おまけにガソリンの質が悪いのでしょう、町全体が排気ガス臭い。西独と東独は戦後35年でこれだけ経済力に差がついた、やはり社会主義はいつかは滅ぶと実感した瞬間でした。
標識通りに走ると15分ほどでアウトバーンに乗ります。アウトバーンと言うと、日本の高速道路のような道を想像されると思いますが、当時の東独側アウトバーンは、ベルリンを抜けると、あとは単なる少し広く直線の多い片側2車線の、フェンスもない「普通の道路」でした。そのため、夜には鹿との衝突が多いらしく、事実、我々の窓口になってくれた某商社ベルリン支店の方がライプツィヒに来られる途中で鹿と衝突事故を起こされました。何時間待っても約束していたレストランにお見えになられないため、その夜は仕方なく帰りましたが、翌朝、会場に来られ、お聞きすると、日本で言う「全損事故」だったそうです。ドイツの鹿は大きくて重いからです。また路面の舗装もあちこちツギハギだらけですので、注意していないと路面のデコボコでハンドルを取られます。西側と違い、東側はカッ飛ばせないのです。とはいうものの、120キロぐらいでトロトロ走っていると後ろから強烈なパッシングを受け、あわてて道を譲ると西独から来たポルシェやメルセデスが猛烈なスピードで追い抜いていきました。瞬時に追い抜かれましたので、軽く200キロ以上は出ていたでしょう。イタリアのアウト・デルソーレでも同様でしたが、あの路面で、、、スゴイ。
ライプツィヒは、かつてはライプチヒと表記したと思うのですが、最近では、より実際の発音に近いライプツィヒと表記することが増えたようです。ライプツィヒは旧東独の都市でベルリンから南西に直線距離で120キロ、アウトバーンだと150キロほど下がったところにある、長い、長い、歴史のある都市です。18世紀にはテレマンやバッハが、19世紀にはワーグナー、メンデルスゾーン、シューマンなどが活躍した、ウィーンと並ぶ欧州における音楽の中心地でした。ゲーテが学生時代を過ごした文化の町でもあり、戦前には瀧廉太郎や朝永振一郎が留学しています。20世紀に入ると工業都市として発展し、旧東独時代にはベルリンに次ぐ2番目に大きな都市でした。第二次大戦でライプツィヒは投下された爆弾の量の割には旧市街の被害は小さかったらしく、かつてバッハが音楽監督を務めたトーマス教会(再統一後の2000年に全面修復されています)も良い状態で残っていました。
トーマス教会では、メッセ期間中だったからでしょうか、日曜日にパイプ・オルガン伴奏付きのコーラス隊とカルテットの演奏を聴くことができました。演者はいずれも若い方々でしたが、少なくともアマチュア・レベルなどではない。それがタダで聴けるのですから、サスガ、歴史が違うと感動しました。
トーマス教会の中で、僕は少し複雑な気持ちでした。
ドレスデンは、すでに戦況が決定的だった状況下で大規模な無差別爆撃を受けましたが、後年、戦略的には無意味な「殺戮」に近い爆撃だったと言われました。市街地の85%が破壊され、貴重な文化遺産も多くが消失しました。また、爆撃当時は10万人とも20万人とも言われる難民が市内に流入していたため、いまだに犠牲者の数すら特定できません。それでも、現在最も信頼性の高い数字は25,000人から35,000人と、東京空襲による犠牲者合計の1/3か1/4程度です。
一方、ライプツィヒにはトータルではドレスデンより多くの爆弾が投下されたのにもかかわらず、旧市街が壊滅的な爆撃を受けなかったのは、ライプツィヒの旧市街はドイツだけでなく、欧州全体の文化遺産という意識があったからかもしれません。米国が奈良や京都を爆撃しなかったことと、すでに戦況が確定した中で行われた広島、長崎への原爆投下を考えると、誰が、どのような基準で判断したのかは知りませんが、米英人の人命と文化遺産に対する価値観のギャップに複雑な思いでした。
何日かするとブースを手伝ってくれる女の子が慣れてきましたので、少し街へ出かけてみました。時間が限られていたためメッセ会場付近や、旧市街のごく一部しか見て回れませんでしたが、旧市街には中世の建物が点在し、まるでタイム・スリップしたかのような通りもありました。ヨーロッパの街にはベルンのように旧い建物や街並みが「そっくり、そのまま」残っているところが多く、歴史を感じます。(僕は5分で飽きてしまいますが)
しかし西側諸国の旧市街に比べるとライプツィヒの旧市街はメインテナンスも行き届いておらず、街全体がなんとなく埃っぽいうえに、建物の壁が継ぎはぎだらけで、特に窓がキタナイ。そして、低質ガソリンの臭い。何よりも、電気事情が良くないのか、夜になると街全体が薄暗く、観光客が気軽に行けそうなナイト・スポットもなく、街全体に活気がない。民宿に帰ってテレビを見ても言葉が分からないので面白くない。民宿のお母さんに聞くと、少し裕福な家庭はPAL方式のテレビを買って、西独のテレビ番組を見ているということでした。某商社の担当者が、「心も(テレビやラジオの)アンテナも西ドイツに向いている」と言った通り、東西ドイツ再統一に向けた反体制運動はライプツィヒから始まりました。
僕にとって、ライプツィヒと言えばゲバントハウス・オーケストラです。ゲバント・ハウス・ホールは建て替え中でしたが、市内には戦後再建されたオペラ・ハウスがあり、メッセ期間中ということで、通常は大晦日に演じられることの多い「こうもり」を上演していました。おそらく、行ったことはありませんがドライリンデンより席数が多いのでしょう。しかし、さすがは欧州。21時開演です。2時間半としても終了は23時半です。ということは、バンメシを済ませてから来てちょうだい、ということですね。メッセの事務局で予約できると言うので、早速、予約しました。夜には他にすることもなく、お金を使うところもありませんので、張り込んで最も高価な席を取りました。オケ・ボックスの少し後ろのセンターです。それでも5,000円ぐらいだったように思います。
早めの食事を終え、スーツに着替えてオペラ・ハウスへ行きました。パーキングが分からなかったのですが、みんな前の広場に勝手に停めていますので、郷に入れば郷に従え、であります。メッセに参加している西側の人が多いのでしょう、女性の多くはイブニング・ドレス、男性もタキシードの方が少なくありません。最も高価な席だったからでしょうか、待合のようなところでカクテルと発泡酒を戴きました。これが、あとからたいへんなことを引き起こすのですが、開演が少し遅れたこともあり、話し掛けてくださった陽気な見知らぬ「そこそこ妙齢」のふくよかな女性と話しながら3-4杯ほどいただいてしまいました。日本のように「お上品な量」ではなく、大き目のグラスにたっぷり注いでくれます。僕には体内にアルコールを分解する酵素が少ないらしく、お酒にはからっきし弱いのですが、雰囲気に乗せられ、ついついグラスに手が伸びてしまいました。
ドイツ統一後に再建されたと聞きましたが、質素とは言え、壁には木材が貼り詰められ重厚な雰囲気に加え、声もオケも優しく響きました。オペレッタは喜劇ですので、ところどころでアドリブのようなジョークが加えられたりするのですが、ドイツ語ですので僕には皆目分かりません。周囲がどっと笑ってもついていけません。語学ができないというのは悲しいことです。当時の僕が理解できたのは、英語と少しばかりのフランス語だけ。ドイツ語はサッパリでした。
やがて第2幕になり舞踏会が始まります。ところが、とつぜん、ドンッという音とともに後ろの大道具が倒れてしまいました。それでも第2幕はそのまま最後まで演じられました。大道具が倒れたときにもファルケだったかアイゼンシュタインだったかがジョークを言ったらしく、会場が沸いたのですが、僕は相変わらずついていけません。オペラやオペレッタは言葉が分からないと、楽しさは半減すると思った次第。
第2幕と第3幕の間には、トン・テン・カンと金槌の音が響きましたが、やがて少し遅れて第3幕が始まりました。しかし、この頃になると連日のお疲れと始まる前のアルコールが効いてきたのか、強烈な睡魔が襲ってきました。開幕から2時間近く経過し、ホール内が暖かくなってきたのも効いてきたのでしょう。僕は不覚にも眠りに落ちてしまいました。おそらくイビキをかいたのでしょう、僕の隣に座っていた人が、僕を何度か突っついて起こしてくれました。いやはやオペレッタだったから、まだマシでしたが、普通のコンサートなら大ヒンシュクものでした。センターの、最も良い席でイビキをかいて寝る東洋人。なんと未開な人間だと思われたことでしょう。その晩はどうやって民宿まで帰ったのかサッパリ記憶がありませんでしたが、朝見ると、クルマに事故跡もありませんでしたので、なんとか運転して帰ったのでしょう。
ライプツィヒの食事は、西側よりクオリティーは落ちますが基本的なメニューは僕の知るドイツ料理と大差はありませんでした。何を頼んでも付け合せにイモ料理がタップリ付いてきて、メインよりイモでおなかが膨れるというか、すぐに飽きてしまいましたので、イモは常に半分以上は残しました。かつてゲーテが通ったと言われる16世紀創業のアウアーバッハス・ケラー(だと思われる地下のレストラン)も訪問しましたが、内装や雰囲気には感動したものの、料理では感動しませんでした。やはり、世界中どこでも同じですが、食事は贅沢しないとマズくなるようです。いくら考えても何を食べたのか明確に思い出せないのですが、ポークかラムの煮込み料理だったと思います。ただ、いただいたワインが思ったより辛口だったことだけは覚えています。ドイツと言えばビールですが、ビールは好みませんので飲みません。上の写真は最近のものですが、当時は、もっと薄暗い雰囲気だったように記憶しています。
滞在中に美味しいと思ったのはライ麦のパンにハムとチーズを挟んで食べたサンドイッチで、特に毎日ランチを食べていた会場近くにあったレストランの燻製生ハム(プロシュートよりハモンセラーノに近い感じ)は塩気抑え目で大のお気に入りでした。果物や野菜はライプツィヒ周辺では栽培されてないため遠くから運んでくるらしく、リンゴも小さいうえに、少々「お疲れ」でした。レストランでの支払いは東独マルクではなく、西独マルクで支払ってあげると喜ばれ、次からサービスが良くなりました。我々は東から西に戻るときに1対1で再び西独マルクに交換できますので、どちらで支払っても同じですが、東独の人が闇交換屋で西独マルクを東独マルクに交換すると3倍ぐらいになるからです。彼らにとって我々は3倍の代金を支払ってくれる客なのです。そりゃあ、ハムぐらい山盛り挟んでくれますよ。あまり好みではありませんが、一週間もすれば、ザウアークラウトも店により微妙に味が異なるということが分かってきました。ドイツは決してイモとソーセージだけの国ではありませんが、かといって、滞在中に「これ」と言ってお薦めできるほどの料理には出逢いませんでした。個人的に、やはり食は地中海沿いが好みです。
やがてメッセも終わり、展示品をパッキングして西ベルリンに送ります。西ベルリンに帰ったら、ホテルの近くに中華料理屋を発見しましたので、喜んで行きました。ところが、これが実にマズイ。それまで中華でハズレたことはなかったのですが、見事なまでの期待ハズレ。いや、そこそこコマシなランクの店なのですよ。それでも、フィリピンの屋台のようなメシ屋で食べた中華料理よりマズイ。おそらくドイツ人の味覚に合わせた味なのでしょう。それがトラウマとなり、その後は二度とドイツで中華は食べていません。
加えて、西ベルリンに戻って気がついたのは、街が明るいこと。そして女性の最新ファッションと、彼女たちの身長が東独より高いことでした。化粧のせいか顔の感じも違う。我々はひとくくりにゲルマン民族と言いますが、考えてみればドイツは歴史的に国の境界や領土の範囲が何度も何度も変わり、その度に様々な民族が「ドイツ国民」となり「ドイツ国内」を移動したため、ある意味で偉大なる多民族国家なのですよね。中世以降、何度も「ドイツ民族」を規定する試みがなされましたが、結局は「ドイツに住むドイツ国籍を有する人」ということにならざるを得ないのでしょう。おそらく当時の西独と東独は、単に摂取していたカロリーの違いではなく、民族的にベースが違っていたのでしょう。日本も今後は加速度的に人口が減少します。僕は民族論者ではなく、文化論者ですが、米国やドイツを見るまでもなく、日本人は民族としての日本人という固定概念を捨て、多民族国家にならざるを得ないのでしょう。10年、20年でみれば様々な問題は発生するでしょうが、50年、100年のスパンで見れば日本文化、あるいは日本人という基本的な概念は残っていくでしょうし、いいじゃないですか。孫が金髪で青い目でも、心が日本人なら。
僕は1975年の卒業論文で、南北ベトナムは既に結論が見えていましたが、東西ドイツの統一は21世紀前半と予測しました。東独は欧州全体をにらむソ連の橋頭堡ですので、そもそもソ連が統一を許さないと考えましたし、ソ連があれほど早く経済崩壊するとは想像だにできませんでした。実際にライプツィヒを訪れたときですら、わずか10年後に再統一されるとは思いもしませんでした。しかし、1990年当時、西独は世界第3位の経済大国でした。その西独に比べれば東独は小さな国で、面積も西独の半分以下でしたが、なによりも人口が西独の1/4程度にあたる1600万人に過ぎなかったことと、それでも東独の一人当たりGDPが西独の40%程度あったことが再統一(と言うよりは西独への合流)を経済的に可能にしたのでしょう。実体験として1980年の東独ですら、レベルは低いものの、最低限の基本的インフラや生活レベルは「やはり、ヨーロッパ」と思えるものでした。
それでも、再統一からの20年で旧西ドイツが負担した費用はインフラ整備に社会保障コストを合わせると中央政府と地方自治体の合計で2兆ユーロを超え、60%程度が社会保障コストだそうです。当時のレート€=140円だと280兆円、平均で年間14兆円を支出したことになります。再統一直後の数年間は経済、特に内需が冷え込み、倒産する企業も数多く出ました。現在までの合計(30年)だと400兆円近いのではないかと想像します。30年経ち、旧東側地域の所得水準がようやく旧西側地域の70%程度にまで上昇したためでしょう、2021年から国民の約90%にあたる所得層を対象に旧東側国民を支援するための連帯税(所得税の5.5%)を廃止するようです。まだまだ様々な格差も残り、わだかまりも残っているとは言うものの、再統一後30年で最低限の目標は達成したということでしょう。
ついでに、卒論では北朝鮮は「経済的」にではなく、20-30年後、初代の死去とともに「政治的」に内部崩壊するだろうと予測しましたが、これまた大ハズレ。学生が思いつくことなど、まあ、この程度です。その後も予想はハズレの連続で、ソ連の崩壊で重油が止まったときも、経済破綻で食料難に陥り大量の餓死者が出たときにも、体制は崩壊しませんでした。加えて、まさか西側で育った3代目が実家に戻り「家業」を継ぐとは思いもしませんでした。政治体制は度外視し、ドイツ同様に経済的視点だけで現在の南北朝鮮を見れば、北朝鮮の面積は韓国より2割ほど広く、しかもインフラは50年前のまま、最低限の治水も満足にできておらず、土地は痩せて食糧の自給すらできません。加えて、人口は韓国の約半分にあたる2500万人と多く、平均的な教育レベルも低く、一人当たりGDPは韓国の5%以下と、ドイツに比べれば絶望的に悪条件です。たとえ北朝鮮の体制が何らかの理由で崩壊したとしても、ドイツのような統一は経済的にも、政治的にも、望むべくもないでしょう。とは言うものの、この予想も、またハズレるのかもしれませんが。
ネットでライプツィヒを調べると、ずいぶん街並みも変わりました。旧市街の建物も着々と修復が進んでいるようですし、トーマス教会のパイプ・オルガンも新しくなったようです。なんだか街全体が観光化されたようで、素敵なレストランも数多くできています。当時メッセが行われた建物も新しく建て替えられ、いまはありません。街全体が、僕が訪れた時のイメージとは、まるで様変わりです。グーグル・ストリート・マップで探しても、民宿のあった場所が発見できません。左折の目印にしていた小さな塔のある家も、民宿のバックにあった小さな森(?)も、見当たりませんでした。再統一後、国営企業は次々解体・整理され、多くの失業者を生んだと聞いています。国営企業のエンジニアだった民宿のお父さんは、その後、どんな人生を送ったのでしょう。西ドイツに憧れていた面倒見の良いお母さんは、どうしておられるのでしょう。