僕の9.11

2001年9月11日。米国で4機の旅客機がテロリストにハイジャックされ、2機がニューヨークの世界貿易センター、1機がペンタゴンに突入、残りの1機は犯人の操縦ミスで地上に激突するという近代史上最悪のテロ事件が起こりました。

危機管理マニュアル通りなのでしょう、米国は事件発生直後、米国上空を飛んでいた全ての航空機を最寄の空港に緊急着陸させ、外国から米国に向かって飛んでいた全ての航空機を、引き返すか、米国以外の国に着陸するよう指示しました。一方的な通告であり、例外は認められません。端的に言えば、指示に従わなければ撃墜する、ということなのでしょう。デフコン3の警戒態勢が取られ、米軍の通信は全て暗号に切り替えられました。その時点で広大な米国の上空を飛んでいたのはブッシュ大統領を乗せたエアフォース・ワンと護衛の戦闘機だけでした。他にレーダーで感知される航空機がない場合、最も安全なのは空中です。これも危機管理マニュアル通りだったのでしょう。ブッシュ大統領はすぐにプーチン大統領にホットラインで連絡し、プーチン大統領は米軍が軍事警戒態勢を取っても、ロシアは対抗的な警戒体制を取らないと約束したそうです。ブッシュ大統領はプーチン大統領に、ひとつ「借り」ができました。

僕は事件が発生した、まさにその時、某エアラインでロサンゼルス空港に着陸する寸前でした。そのエアラインを選んだ理由は、到着時間が到着日を有効に活用するためには最も都合良かったからです。

「間もなくロサンゼルス空港へ着陸態勢に入ります」というアナウンスがありました。すでに海岸線から内陸部へ入り、高度を下げてロサンゼルスの裏側に回り込んでいるところでした。しかし、いつまで経っても陸地の上を旋回するばかりで着陸態勢に入らず、しばらくしたら、そのまま海上へ出てしまいました。

どうしたのだろうと思っていたら、「ロサンゼルス空港から着陸許可が出なかったため、カナダのバンクーバー空港に向かいます」という機内アナウンスがありました。驚きました。乗客は何が起こったのか分からず、最初は、この飛行機、あるいは、この飛行機の乗客に着陸を拒否される何らかの問題があるのではないかと考えました。不安な声と空気が機内で高まったとき、ようやく機内放送で「米国内で事件が起こった」という簡単な説明がありましたが、僕も含め、多くの乗客は直感的に「戦争が起こり、ロサンゼルスが攻撃された」と思いました。なぜならば、ロサンゼルス近郊には数多くの空港があり、ロサンゼルス空港(LAX)だけの問題であれば、降りられる空港は他にも数多くあるからです。

やがて飛行機はバンクーバー上空に着きましたが、なかなか着陸許可が下りません。何度も何度も海上を旋回しました。おそらく残っている燃料が少ない順に着陸させていたのでしょう。ロスへの到着予定時間を3時間以上経過し、もうそろそろ予備燃料が切れるころでは、なんて心配をし始めたころ、ようやく着陸許可が下りました。旅客機は目的地までの燃料以外に、必ず余分の燃料を積んでいますので、少々飛行時間が伸びてもガス欠になることはありません。特に、飛行距離が長い場合は途中で何が起こっても、引き返したり、代替え空港まで飛べる十分な燃料を搭載します。

着陸後、窓から外を見ると、まるで交通渋滞時の車のように、空港のあらゆる場所が航空機で埋まっていました。こんな光景は初めてです。ただならぬ雰囲気を感じました。

着陸したものの、なかなか機外へ出られません。2時間ぐらい機内にいたと思います。乗降ゲートの近くまで移動し、タラップで直接地上に降りました。そこには警察ではなく、明らかに軍隊と思われる兵士がマシンガンを持って待機していました。歩いて空港ロビーのイミグレイションまで行き、綿密なボディ・チェックと、続いて税関で綿密な荷物検査を受けました。小さなものまで、ひとつひとつを入念にチェックします。検査担当官に何が起こったのかを尋ね、そのとき初めて、ニューヨークでテロ事件があったということを知りました。

ロビーで航空会社の説明が始まりました。ニューヨークでテロ事件があったという簡単な説明と、少なくとも今日は飛べないということ、そして、突然、大量の旅客がバンクーバーに到着したため、いまホテルを探している、という説明を受けました。待つこと1時間半ほど。ホテルは確保できたものの、緊急時なので一人一部屋ではなく、エクストラ・ベッドを入れた3人部屋で、同室の相手は選べない、という説明でした。ここで文句を言っても始まらないと思いましたので、とりあえず航空会社が準備したバスでホテルに移動。ホテルに着くなり電話帳で探し、あちこちのホテルに電話して空室を探しました。あいにく、見も知らぬ方と3人同室で寝られるほど、僕の肝っ玉は大きくありません。

10軒目か15軒目か、やっと空室のあるホテルを見つけ、航空会社の担当者に「自費で、これこれのホテルに移るから、米国へのフライト時間が決まったら、連絡してくれ」とメモを渡し、乗客名簿に転記するのを確認のうえ、見つけたホテルへタクシーで移りました。見つけたホテルは小さなホテルでしたが、快適な客室でした。テレビをつけると、貿易センタービルに飛び込む旅客機の映像が流れていました。僕は唖然としました。とても、それが現実に起きたことだとは信じられませんでした。

バンクーバーから米国へのフライト、あるいは日本へ戻るフライトは、いずれも予定が見えず、その時の説明では、少なくとも2日、3日で飛べるような安易な状況ではない、とのことでした。その日は疲れてしまいましたので、夕食もそこそこにベッドにもぐりこみました。ベッドで横になることが、これほど気持ちが良いものなのか、と思いました。

翌朝、すべての航空会社に電話し、ロサンゼルス行きのフライトを確認しましたが、いずれも「まだ、先のことは何も分からない」という返事でした。

ここで考えたことは、ふたつ。まずは、「天が与えた休日」として、バンクーバーで楽しく過ごす。もう一つが、レンタカーでロサンゼルスまで走る、という選択肢でした。早速、レンタカー会社に電話しましたが、返事は否定的なものでした。まず、カナダと米国の国境は閉まっているかもしれない、米国人以外は入国できない、などという不確かな情報。もう一つは、バンクーバーで借りてロスで乗り捨てると、乗り捨て料金が極めて高いという事実でした。こうなると、もう開き直るしかありません。その日は港の近くと旧市街を散策し、聞き込み調査で知った「おいしいイタメシ屋」で食事をしました。ここは美味しかった。夜はテレビをつけても、このニュースばかりです。

翌朝、また、すべての航空会社に電話しましたが、答えは同じでした。この日も街を歩き回り、夜は美味しいと評判の中華屋さんへ行きました。しかし、正直、評判ほどではないというか、期待したほどの味ではありませんでした。中華は、やっぱり日本の中華が僕の口には合う。初めて「中国で食べた中華料理」は南京でしたが、これもイマイチでした。

到着した日を入れて4日目、乗ってきたエアラインから朝早く電話が入り、今日の午後、時間は未定だが、ロスに向けて飛べるかもしれないので、空港で待機するように、ということでした。荷物をパックして最初に連れていかれたホテルのロビーに集合し、点呼を受け、バスで空港まで移動しました。そして、到着時以上に細かいボディ・チェックと荷物チェックを済ませ、その日の夕方遅く、ようやくロスに向けて離陸することができました。

ロスに到着し、再度細かい荷物チェックをすませたあと、予定していたホテルにチェックインしました。もちろん、事態が事態だっただけに、違約金は請求されませんでした。急いで予定していた3日間のスケジュールをこなしましたが、今度は、帰りのフライトが見つかりません。予約していた某エアラインは、機材が到着しないので、スケジュールは未定という答えを繰り返すばかりです。他の航空会社も同じでした。新しく外国から到着する航空機を制限していたのです。まったく先が見えません。米国から飛び立つフライトには元々「それなり」の予約が入っており、空いた席の数しか乗せられません。客の乗っていない臨時便を日本から飛ばしても、それを受け入れる体制が米国側にはなかったのでしょう。日本行きのフライトは乗客率が高かったため、空いた席で1週間分の乗客を消化するのに時間が掛かることは容易に想像できました。

今度は好むと好まざるにかかわらず、ロスで「天が与えた休日」を過ごすことになりました。

市内から少し南、レドンド・ビーチの近くにあるアパート式のホテルに移りました。広くてキッチンもあり、価格も市内の半分ほどだったのも理由ですが、最大の理由は、このあたりは友人がトーランスに住んでいたため何度か来たことがあり、土地勘があったことでした。近くに大きなスーパーもありました。テレビでは、相変わらずテロのニュース一色でした。

朝はビーチにあるパン・ケーキ屋さんで朝食です。ここのお気に入りはブルー・ベリー・ソースを掛けたパンケーキです。天気も良く、ニューヨークでこれだけ大きな事件があっても、西海岸は「いつも通り」でした。昼はハンバーガーで済ませ、夜はスーパーで食料品を買ってきてホテルで食べました。スーパーのデリで買った量り売りの小エビと、ホーム・メイド・カクテル・ソースがすばらしく美味しく、次の日も山ほど食べました。ここのカクテル・ソースは細かくほぐしたカニの身をはじめ、様々な味付けがしてあり、いまでも僕の中ではベストのカクテル・ソースです。残念ながら、日本ではカクテル・ソースを既製品で入手することはできません。仕方がないので米国からデルモンテのカクテル・ソースを送ってもらい、それにカニのほぐし身やチリ・ソース、ライム果汁などを加えて好みの味を作ります。オマールを食べる時も、僕はバター・ソースやアメリカン・ソースではなく、カクテル・ソース派です。

翌日も、ビーチをウロウロしたり、クルマ屋さんや楽器屋さんを回ったりしていましたが、すぐに飽きました。買う気もお金もないのに、見るだけなんて、ね。相変わらず帰りのフライトは見込みが立たず、することも無く、アミューズメント・パークに行っても僕には退屈なだけです。そこで、何度か行ったことのある、家族を連れて行ったこともあるメキシコのティファナへ遊びに行くことにしました。ロスから車でサンディエゴまで行き、国境近くの駐車場にパークすれば、歩いて国境を越えられます。市内から国境までは路面電車も走っています。モチロン、車でそのまま国境を超えることもできますが、ティファナ市内はゴチャゴチャしており、自分で運転したくありません。米国からメキシコへの越境はパスポートのチェックもありません。歩いてゲートを抜ければ、そこはメキシコです。

朝早く、暗いうちにホテルを出てサンディエゴに向かいました。405から5号線に出れば、2時間少々です。国境ゲート近くの駐車場にパークし、トコトコと歩いてティファナに入り、タクシーでセントロに向かいました。いままで何度か昼食を取ったのは、メイン・ストリートのカドの2階にある観光客相手の店でした。味付けは一般的な米国内の味と同じで、唯一の違いは、小さなグリーン・ペッパーのピクルス(?)が「おつまみ」で出てくるぐらいです。噛みしめると口の中ががしびれて感覚がなくなるほど辛いのですが、かつて息子が小学生のころ、このレストランで美味しいといって何本か食べ、いきなり鼻血を出したことがありました。しかし、本場のメキシコ料理というか、現地人が好む味のメキシコ料理が食べてみたい、と思った僕は、観光案内所で聞いて「本場のメキシコ料理」を食べに行きました。少し早かったためか、ガラガラでした。何を食べたのかも、実はよく覚えていないのですが、まったく口に合いませんでした。味もですが、とりわけ臭いが合わず、半分ほど残してしまいました。海外へ行って、現地の、いわゆる本場の料理を食べても、必ずしも日本人が美味しいと感じるわけではない、本場=美味しいということではない、ということを再認識しました。

セントロの店を見て回り、お土産をいくつか買いました。そして、タクシーで国境ゲートまで戻りました。そこで見たのは、それまでの人生で見たことも無いほどの長い行列でした。米国への入国を厳しく審査、制限していたのです。そこで初めて気が付き、「しまった!」と思いましたが、もう、どうすることもできません。2-3時間は待ったでしょうか、列が縮まる様子はありませんでした。このままでは帰れないと思った僕は、直接、米国側の入国管理官に交渉しました。

運が良かったのでしょう。その担当官は若いころ海兵隊で沖縄に駐留していたことがあり、片言の日本語が話せました。まあ、コンニチワ、オゲンキデスカ、程度ではありましたが、彼は僕を別の部屋に連れていき、そこで、この1週間ほどの経過を話すと、「そりゃあ、大変だったね」などと言いながらパスポートをチェックし、10分ほどで入国させてくれました。このときほど日本のパスポートをありがたいと思ったことはありません。その日はホテルの近くで見つけた、大好きなTony Roma’sでスペア・リブを腹いっぱい食べました。僕は若いころから、おいしいものを少しだけ、ではなく、おいしいものは腹一杯、飽きるまで食べ続けるのですよ。

Tony Roma’sは日本にもあり、1980年ごろに皇居近く(1番長か3番町あたり)にできたのが最初だったのではないでしょうか。確か、その頃はレッド・ロブスターやビクトリア・ステーションが入ってきた時期だったと思います。その後、ビクトリア・ステーションとトニーローマは芦屋にもでき、子供たちが大好きな店でしたが、いずれもなくなってしまいました。最近、神戸にトニーローマが「再々復活」しましたので家族で行きましたが、我々の感覚が変化したのか、家族の評価これ芳しからず、その後は一度も行っていません。

翌朝、ようやくJALにキャンセル待ちがある、という情報を入手。空港へ行ってオリジナルの航空会社から航空券のエンドースをもらい待機していましたら、最後の1席、しかも鳥かご部屋ではなく、ビジネスでした。普段は美味しいとも思わなかったJALで出る米国製のお寿司を食べながら、しみじみ、ようやく日本に帰れる、と思ったのです。そういえば、そのむかし、香港から帰るときに予定のフライトが台風で飛ばず、翌日、空きのあったファーストに乗せてもらったことがありました。後にも先にも、ファーストに乗ったのは、この1回だけです。

米国は、この事件をきっかけに膨大な軍事費をつぎ込んで対テロ戦争を始めます。ブッシュ大統領は、これは戦争である、と宣言しました。後日、NYTだったかWSJだったか、掲載された記事の中で、9.11による死者は3,000人以上であり、日本による真珠湾攻撃の死者2,400人を超える、という指摘がありました。米国にとって、このテロ事件は現代の真珠湾攻撃であり、まさに巨大軍事国家、米国に対する宣戦布告だったといえます。米国国民にとっても、リメンバー・パール・ハーバーならぬ、リメンバー 9.11 だったのです。