路地もの苺

毎年5月になると食べたくなるものに、路地もの苺があります。

ハウス栽培ではなく、畑で栽培した苺のことで、多くは昔ながらの品種です。探すのですが、この数年、見つけたことがありません。最後に食べたのは、5年ほど前。家族で淡路島へ出かけたときに、たまたま立ち寄った道の駅のようなところで幸運にも買うことができました。さっそくクルマの中で食べたところ大ヒット。慌てて戻りましたが、売り切れていました。最近、スーパーで買う苺は、僕が好きな苺の味ではありません。

柿も同じです。最近は殆どが富有柿で、見た目はキレイなのですが、味が薄いと感じます。私は、少し小さくて丸くて、果肉に茶色い部分があり、コリコリと硬いものの噛むと甘みがある柿が好きです。次郎柿のような品種ですが、品種を特定しようと思い調べてみると、柿にはおびただしい種類があることを知りました。

反対に飛躍的に美味しくなったと感じる果物もあります。その代表的なものは柑橘類です。かつて米国産オレンジを輸入解禁することが決まったとき、日本のみかん農家が壊滅すると言って大規模なデモまで行われました。しかし、日本は改良に改良を重ね、美味しい柑橘類を次々と開発しました。私が最も好きなのが「甘平」という品種と「紅まどんな」という品種で、もう6-7年前でしょうか、初めて食べたときは感動しました。いまでも米国産柑橘類は、日本で販売される柑橘類の主流ではありませんし、季節になるとスーパーには温州みかんが溢れますので、少なくともみかん農家が壊滅したということでもなさそうです。

葡萄も同様です。最近はぶどうの品種が多すぎるうえに、毎年のように新しい品種ができますので、名前すら覚えられません。しかも、美味しい。日本の大きくて甘くてジューシーな葡萄を海外から来た友人に食わせると、見た目でも驚きますが、美味しいのにも驚きます。林檎も同様ですね。

葡萄と言えば、前に家内と、義理の妹の兄との間で交わされていた会話で笑ってしまったことがありました。彼は、種は出すが皮は食べる派で、家内は皮は剝いて食べるが種は食べてしまう派でした。お互いが、それはおかしい、と言い合っているのは、私のように皮も種も食べない派には実に奇妙な会話でした。

閑話休題

野菜でも、トマトなどは昔の味とはまったくと言って良いほど違います。もう10年以上前でしょうか、初めて娘と高知で徳谷トマトを食べたときは驚愕しました。反面、最近の「工場」で生産されるトマトは、私にとってトマトではありません。セロリやパクチーも、なにやら香りが薄くなったというか、以前ほど匂わなくなったような気がします。

考えてみれば、米、野菜、果物、そして世界中に知られる和牛など、我々が口しているものの殆どが、この100年ほどの間に日本で品種改良されたものです。日本人が大好きな桜(ソメイヨシノ)も品種改良によって生まれました。千葉大学の中村郁郎氏によれば、約150年ほど前、まだメンデルの法則が発見されるよりも前に、人為的な交配によりソメイヨシノが生み出され、原木と思われる1本が上野公園に現存することが、ほぼ確実なのだそうです。つまり、その1本から全国に広まったということです。いまの高級和牛が、たった1頭の牛から、というのに似ていますね。 http://www.nacos.com/jsb/06/06PDF/127th_307.pdf

先端技術といえば工業技術や医療技術を思い浮かべますが、どうやら日本は世界でも稀なほど農畜産物の品種改良には熱心なようです。品種改良により、100年前とは見た目も味も大きく変わりました。ほんの20-30年前には、世界中のどこにも存在しなかった野菜すら、スーパーに並んでいます。海外のシェフが日本に来ると、日本の野菜や果物の種類と味に驚くそうです。まさに、ガラパゴス化です。ガラパゴス化はケータイだけの話ではなく、日本の社会全体がガラパゴス化しているようにも感じます。

いまから100年後には、日本では野菜であれ果物であれ、殆どの農産物が「工場」で生産され、魚介類はすべて養殖されているのかもしれません。スーパーの特売日にはマツタケが山積みされ、まぐろは全身がトロになっているかもしれない。100年後の人々はどんな野菜や果物を食べているのでしょうか。私の夜叉孫は、どんな味を美味しいと感じるのでしょうか。

それにつけても、路地もの苺が食べたい。