リマの想い出

僕がいままでの人生で、合算すると最も長い期間を過ごした海外の都市は、ペルーの首都、リマです。合計すると1年を超えます。漢字ではペルーは秘露と書き、たとえば日米首脳会談にあたる日本語表記は、日秘首脳会談となります。

もう30年ほど前になりますが、僕は某電機メーカーで海外営業を担当していました。5年ほど商品カテゴリー別の海外プロモーション部門を経験した僕は、そのあと地域担当の営業部署に配属されました。当時、海外営業なんて言いますと、多くの方はニューヨークのフィフス・アベニューあたりをアタッシュ・ケース片手に風を切って闊歩している、などという姿を想像されましたが、僕のようなぺーぺーの若造は、まずは一般地域と呼ばれる開発途上国で修行したものです。

30年前の記憶の断片を集めたものですし、僕個人の理解と見解ですので、誤解や誤記もあると思います。また、日本から見た状況と、現地での実情には大きな乖離もあると思います。その点は善意をもって、ご理解いただきますよう、お願いいたします。

僕が最も長く滞在したのは1983年から1984年。リマにアパートを借り、リマとコロンビアのボゴタを行ったり来たりしていました。最初はホテル(シェラトン)に住んでいましたが、途中で引っ越しました。なにせ年のうち半分以上は現地にいましたので、年間を通じてアパートを借りたほうが安いうえに、部屋も広く、立派なキッチンもあって、なにより快適だったからです。

外国人が多く住むミラフローレス(東京で言えば原宿でしょうか)のど真ん中にあった外国人向けアパートの6階です。銃を携帯したガードマンのいるアパートの玄関を通り、エレベーターで6階まで上がります。そして、自分の部屋の前にある鉄格子の鍵を開け、それから玄関ドアについている2個の鍵を開ける、といった具合で、鍵の数はステータス・シンボルでした。

家賃は当時、僕が東京で払っていた家賃と同じぐらいでした。しかし、当時のリマでは普通のワーカーの給料が5,000円。一般的なサラリーマンが1万円前後でしたので、いまの日本の感覚で言えば家賃100万円ぐらいでしょうか。いない間に掃除してくれ、カゴに洗濯物を放り込んでおけば、次の日にはキレイになってベッドの上に置いてありました。

日本では「バブルに向かってGO!」の時代でしたが中南米は景気が悪く、特にペルーは最悪で、「デフォルト(債務不履行)に向かってGO!」の状況でした。政治的にも不安定で、1984年ごろからは農村部だけでなくリマでもゲリラによるテロが頻繁に起こりました。当時リマにあった唯一の日系銀行リマ支店長が殺害されたのも、この時期です。

僕が始めてペルーに出張した1981年は軍政から民政に移行した直後でしたが、これといった産業の無いペルー経済は悪化の一途をたどり、失業率はすでに50%を超えていました。なにせ、カタクチイワシがエルニーニョで沖のほうへ流れていってしまうとペルーのショボイ漁船では獲りに行けず、気候ひとつで国の経済全体が大きく落ち込む、なんて具合でした。そうそう、ペルーにはイワシの油で固めた石鹸があり、いちどそれで手を洗うと1日中イワシの臭いが取れず、たまりませんでした。リマの空港に到着すると、なーんとなく独特の臭いがしたのは、イワシ石鹸のためだったのかもしれません。

そんな状況でしたので、日本製電気製品の完成品が輸入禁止になることは確実と判断し、ペルーとコロンビアにメーカーが長期ローンを提供し、ノックダウン工場を作ることにしました。僕の担当ではありませんでしたが、アルゼンチンとブラジルにも同様にノックダウン工場を作りました。ペルーではラジカセ、コロンビアではテレビをノックダウン生産しましたが、そのためには、日本の工場から指導員を出し、営業から連絡員を出す必要がありました。

カヤオ港の近くに工場用地を買い、工場のレイアウト図面を東京に送りました。そうすると、なぜ倉庫の屋根が片持ち式で完全な閉鎖式ではないのか?という質問が返ってきました。なるほど、と思い担当者に尋ねますと、リマの年間降雨量のグラフを持ってきました。年間を通じ、雨は、まず降らないのです。年間10mmほどです。リマで雨に降られた記憶はありません。再び、それを東京に送りますと、そういうことではなく、ホコリが溜まるだろうと怒られました。それを担当者に伝えますと、今度は、そのために箱に入った上からラッピングしてあるのではないか、と反論されました。相互理解はムツカシイ。

当時のペルーは政治的にも混乱しており、農村部だけでなく、リマ市内でもテロが起こり始めていました。しかし、少し大掛かりなテロは不思議と農繁期には起こらず、農閑期に起こります。当時テロ・グループには農村部を中心に活動するセンドロ・ルミノッソと都市部を中心に活動するMRTAの二つがありましたが、いずれも大きな組織ではなく、少し大きなテロ活動をするには農閑期に農民をアルバイトで雇わなくてはならないためです。ペルーのテロ集団には、政府を転覆させて政権を取ろうなどといった強い意志や宗教性は感じませんでした。なんかマヌケなところがあったりして、全体にゆる~い感じがするのですよ。

僕の理解では、センドロ・ルミノッソは密輸業者や麻薬ビジネスのグループから資金提供を受けており、地方の警察や行政機関などを襲って取締りを手薄にさせるのが目的でした。MRTAは国内やキューバの政治組織から資金提供を受けており、主に、当時国民からの支持を広げていたアプラ党を襲撃しました。誰が後ろで糸を引いていたのか、誰でも分かる簡単な構図です。

それにもかかわらず、1985年にはアプラ党が結党60年ぶりに政権を取りました。しかし、この政権がまたヒドい政権で、ペルー経済は底の見えないブラックホールへ真っ逆さまに落ち込んでしまったのです。最もヒドい時は失業率が7割と言われました。7割ですよ。そりゃあ、そうです。一度も政権を取ったことのないシロート政党が政権を取るとどうなるのかというのは、日本でも経験しましたよね。公約なんて、なにひとつ実現しません。経済を立て直すため産業育成やインフラ整備に使うべき予算を貧困層にバラ撒いたのですから、一時的に人気は上がりますが、その結果は推して知るべしです。フジモリ政権には様々な批判がありましたし、行き過ぎのところもありましたが、あの国を多少とでもマトモな国にするには独裁政権以外に方法がなかったと思いますし、フジモリ政権を再評価するときは必ず来ると、個人的には思っています。いまお嬢さんが大統領選挙を有利に戦っていると聞きますので、是非とも頑張って大改革していただきたい。

<追記>

残念ながら、わずか0.2-0.3%、4万票ほどの差で破れました。お父さんが収監中というのが響いたのでしょうか。お父さんは田中角栄と同じで、プラスとマイナスを合わせればプラスのほうが遥かに大きい大統領だったと思うのですが、ペルーでもお父さんの時の様に、様々な既得権利や利権を切られると困る人が多かったのでしょう。何も悪いことをしなくても国の役に立たない政治家よりも、少々悪いことをしても国の役に立つ政治家のほうが、遥かにマシだと思います。「沈香(じんこう)も焚かず屁もひらず」ほど最悪な政治家はいませんからね。

敢えて極端な表現をすれば、中南米のテロは多くがビジネスですので、定期的にテロ活動をしなくてはならなかったのですが、それにはアルバイトが必要です。そもそもペルーのテロ集団は、それほど大きな勢力ではなかったようです。理由は簡単です。それだけの人数を食べさせて給料を支払えるだけの安定した収入がなかったからです。いくらテロ集団とはいえ、家族もいます。給料もなく、寒村で雑草を食べて過ごせと言われれば、そりゃあ、続きませんよ。

フジモリ政権のときに起こった日本大使館占拠事件でも、テロ・グループの半数以上はアルバイトだったと思います。特殊部隊が踏み込んでテロ・グループを全員射殺したのは、彼らが自分たちの娯楽のためにサッカー・ゲームをしていたときだったというのですから、少なくとも訓練されたプロのテロ集団ではありません。占拠期間が長くなるにつれ、ストックホルム症候群が起こったとも言われますが、テロ・グループの中に、人質と「テロが終わったら軍隊に入る」とか、「学校の先生になりたい」という会話を交わしたメンバーがいたことも驚くことではありません。あくまでもアルバイトですので、テロが終われば一般市民として普通に街中を歩き、普通の生活に戻るのです。

ある日の夜、代理店から借りたクルマで郊外を走っておりますと、右ドアに石でも当たったような大きな音がしました。翌日の朝、明るくなってから見ますと、ドアに小さな穴が開いていました。更によく見ますと、コンソールに銃弾が食い込んでいました。工場完成式典に出席するため東京から副部長が来たとき、僕はそのクルマで迎えに行きました。

空港税関の「アミーゴ」に「税金」を支払うと、タラップの下まで車で乗り入れることができました。10分ほど車中で雑談しているうちに、アミーゴがパスポートにハンコを押し、荷物をピックアップしてきてくれますので、そのまま市内に出られます。

パナマにも同様のサービス(?)があり、ウェルカム・サービスと呼んでいました。日本からうなぎの蒲焼を真空パックで大量に持ち込むときなどは、出発前にテレックスで「UNGあり」と連絡しておくと現地子会社の人がこのサービスを手配してくれました。すべてフリー・パスです。UNGはとても感謝され、パナマ滞在中は一度も食事代を払わせてくれないほどでした。駐在員の間で、何歳以上は1匹、何歳以下は1/2匹という暗黙の了解があり、家族の数を数え間違え、不足したときなど、全員が会議室に集まり、配分について真剣な検討会が持たれました。余ったときも同様で、それを誰が取るかで現地法人の「社長判断」を仰ぎました。バカバカしいとお思いでしょうが、ああいうところにいると仕事よりうなぎの配分のほうが余程、重要に思えてしまうものです。

それ以外にも、事前に決めた、いくつか符牒があり、出張の時には様々なリクエストがありました。

入手に苦労したのは710でした。これは納豆菌です。現地で納豆を作るためには納豆菌が必要でした。大豆は現地でも簡単に入手できます。倉庫の隅でテレビのCRT(ブラウン管)が入っていた発泡スチロールのケースを使い、白熱灯を裏から当てて温度を一定に保ちます。1日か2日でネバネバになります。納豆菌の種類で味が変わるというのも、この時知りました。嫌いではありませんが、関西人にはなじみのない世界ですから、前回と違う種類の710をと言われても困ってしまいます。

パナマには、どのホテルにもカジノがありました。といってもショボイもので、客など数人です。ラスベガスだと、アッという間に巻き上げられますが、パナマは掛け金も1ドルからと小さく、結構長い時間遊ばせてくれました。僕はベインテウノ(21ですのでブラック・ジャックですね)ぐらいしか出来ませんが、顔馴染みになりますと勝たせてくれます。と言っても、せいぜい昼メシ代ぐらいですが。

またまた、脱線しました。

リマ空港からホテルに向かう車中で副部長に、「そこに穴があるでしょう、コンソールには銃弾が入ったままです。いま撃たれると副部長の膝を貫通します。これで危険手当が付かないのはおかしい」と訴えたところ、過去に遡って出張手当は増額されました。その資金で僕は出張帰りにマイアミで懇意にしていた楽器屋さんに立ち寄り、1957年製のストラトキャスターというギターを買いました。

また、ある日、リマ市内を歩いていると、ワン・ブロック先にあるアプラ党の本部で爆弾が爆発し、生まれて初めて人が空を飛ぶのを見ました。翌日の新聞1面には、血だらけで倒れている被害者の写真がカラー印刷で大きく掲載されていました。さすがに、これにはビビリました。もう1分か2分あとに爆発していたら、空を飛んだのは僕だったかもしれません。しかし、警察が調べたところ、市内何箇所からか同様の爆弾が発見されたものの、それらはすべて不発だったそうです。おそらくバイト君が「置いてこい」と言われただけで、タイマーの操作を知らなかったのでしょう。

僕はいったん日本に帰ろうと思い荷物をまとめていたら、東京から「帰国に及ばず」という返事が来ました。僕ではありませんが、1979年のイラン革命時も現地にいた担当者は「事態急変に付き。帰国に及ばず」という連絡を受け取ったそうです。

ちなみに、僕が担当していたもうひとつの国、コロンビアではテロではなく、誘拐が頻繁に起こりました。金持ちの家族を誘拐して身代金を得るというビジネスです。いくつかのグループがありましたが、まず誘拐するグループは通常、誘拐するだけです。誘拐すると「交渉」するグループに人質を売却します。いくらいくらの身代金が取れると思うので、いくらでどうだ、みたいなことでしょう。誘拐された側との交渉がスムースに進まなかったり、ヤバくなると次のグループに値引きして交渉権を転売しますが、誘拐された人質は誘拐グループが預かったままということが多かったようです。要するに「分業制」なのです。おそらく捕まったときのリスクを分散させるための「経験上の知恵」だったのでしょう。

当時のコロンビア代理店のオーナーはジューイッシュで、エメラルドの採掘権を持つコロンビア有数の「スーパー・リッチ」の一人でした。彼の家の地下には爆撃されても大丈夫なほど頑丈なエメラルド部屋があり、1週間は暮らせるだけの食料と水が常に保管されていました。僕は、そこで「スミソニアンに売れた」という、史上3番目に大きいエメラルドを見せてもらいました。

彼の息子から聞いた話では、彼の従妹が大学で授業を受けていると、3人ほどのマシンガンを持ったグループが教室に入ってきて、彼女を誘拐していったそうです。とはいえ、誰かに危害を加えるというわけでもありません。きわめてビジネスライクに誘拐していったそうです。家族が大慌てしていると誘拐犯との交渉をビジネスとしている人からすぐに連絡があったそうです。情報は、しかるべきルートで、しかるべき人に流されているということです。その交渉人を通じて金額が確定すると、支払いと引き換えに彼女は戻ってきたそうです。きわめて効率的でシステマティックですね。

僕が退社した翌年だったと思いますが、誘拐グループが何を思ったのか米企業の幹部を誘拐したところ、怒った米国が特殊部隊を送り込み、その誘拐グループを全滅させたというニュースが日本の新聞の片隅に載りました。フォークランド紛争でも同じですが、相手を間違えると痛い目に逢うということでもありますし、ローカル・ビジネスがじゅうぶんな知識や準備も無くインターナショナル・ビジネスに進出すると、そのリスクは大きいという教訓でもあります。

コロンビアの代理店オーナーと家族は、それぞれのクルマに運転手を付け、運転手は腰に銃を差していました。僕が担当になる何ヶ月か前に日本企業の社員が誘拐されましたので、僕が行くと、いつも奥様の運転手とクルマを貸してくれました。運転手は街を歩くときも常に僕の数メートル後ろを歩き、警護してくれます。後ろから狙われることが多いからです。銃を撃つこと自体は違法ではありませんでしたので、僕も休みの日には運転手に連れて行ってもらい、郊外のスポーツ・クラブにあるクレー射撃場に併設されている練習場でインストラクターの指導を受けました。しかし、当たらぬものです。テレビや映画で犯人を撃つと当たる、なんて夢のまた夢です。しかも、1時間も練習すれば、手首と肩がしびれてモノが掴めなくなります。軽い腱鞘炎のようなものですね。45口径なんてとんでもない。その点、ライフルは少し練習すると50mほど先の小さな的の真ん中が撃ち抜けるようになります。特にM-16の(射撃用)民生型は反動も少なく、100発も撃てばシロートでも、そこそこ円の中には当たるようになります。日本の警官が年に何発、実弾射撃の練習をするのか知りませんが、少し前に事件で警官が発砲し、犯人の足に当たったというニュースを見て、単純に、スゴイと思いました。日本の警察官が使っているのは38口径です。

銃は学生時代にスペインで練習して以来でした。スペインでは古式銃を買って帰り、羽田で止められました。土産物屋のような店で、普通に売ってました。古式銃でしたし、父の知り合いの某大臣(選挙のときに陣中見舞いを持って行き、何度かお逢いしました)に身元保証をしてもらったおかげで没収だけで済みましたが、グリップと銃身に見事な彫り物のある美しい銃でしたので、没収は残念でした。そのときはドイツで状態の良いフル・オリジナルのモーゼルC69を見つけ、銃身のライフルをドリルで抜いて何かで埋めてくれ、と頼んだのですが相手にもされず、さすがにモーゼルはアカンやろ、と思い断念しました。モーゼルを見ると当時のドイツがいかに技術的に進んでいたのか、良くわかります。分解して各部の状態を見せてくれましたが、部品の一つ一つが実に良く出来ています。エッジの切れが良く、面がキレイ。第二次大戦中、ドイツでは様々な兵器の部品を小さな下請け工場で生産していたそうです。町工場ですら素晴らしい加工技術を持っていたということなのでしょう。第二次大戦中、日本はダイムラーのV型12気筒水冷エンジンをライセンス生産しましたが、日本では質の良い鍛造クランクが生産できず、飛行中にクランクが折れて飛行機が落ちるという事故が頻発したそうです。日本は、負けるべくして負けたということでしょう。

コロンビアに作ったノックダウン工場には、24時間、銃を持った警備員が入り口と屋根の上に配備されていました。少し前に、某競合日本メーカーの倉庫が襲撃され、リモコンを盗まれたからです。すぐに「交渉人」から連絡があり、リモコンを高い金額で買い戻したと聞きました。当時の中南米ではリモコンが大ブームで、リモコンがないテレビは売れなかったのです。とはいえ、日本からリモコンだけを輸入すると時間が掛かるうえに、確か100%の関税を掛けられたと思います。交渉人の持ってきた値段は、おそらく、その良いポイントを突いていたのでしょう。サスガ、ですね。リサーチが行き届いている。しかもスマートです。間違っても持ち運びが大変で、シリアル番号ですぐに足が付くテレビ本体は持っていかない。

税関といえば、中南米の税関ではヘタをすると1ヶ月以上放置されました。早く通関するためには、税関所長と「アミーゴ」になる必要があります。「ローマでは、ローマ人がするように」の格言に従えということです。僕もベネズエラの空港で新製品商談会のためにニューヨーク経由で持ち込んだ50点ほどの新製品が何日も空港税関で止められたことがあり、そのときもビデオ・デッキ1台で「アミーゴ」になって通関してもらいました。アミーゴになれば、通関など5分もかかりません。担当者を呼んで、スタンプを押し、サインすればオシマイです。中身など、見ません。その後も、この空港税関所長には何度かお世話になりましたが、税関所長が交代すると、また、いちから「アミーゴ」にならなくてはなりません。ただし書類上は、あくまでも「差し上げる」のではなく、「お貸しする」だけです。

リマでは代理店の中にオフィスとして部屋を借り、英語の話せる秘書をつけてもらいました。僕は大学で第二外国語としてフランス語を選択しましたので、なんとなく読めば雰囲気ぐらいは分かりますが、話すほうは怪しいもので、初めてリマに出張したころは、せいぜい時候の挨拶程度というか、迷子になっても道が聞ける程度だったからです。彼女は毎日、新聞を見て関連のありそうな記事を英語に訳してくれたりしていました。当時のリマには英字新聞がなく、駐在員仲間との会食や新聞からの情報は、社会の情勢と政府の動きを察知するための貴重なソースであり、最低限の必要経費でした。彼女は21歳か22歳だったと思いますが、5歳の子供がいました。ペルーはカトリックが多く、できちゃったら生む、のです。そのため若いママが多い。代理店の部長は30歳代前半の女性でしたが高校生の息子がおり、ビックリしました。

週末になると会社の若い独身の連中5-6人と近くのデリで食べ物と闇屋でチリ・ワインを買ってきて、僕のアパートでワイワイと過ごすのですが(コミュニケイションは大切です)、僕の秘書は来ると必ず風呂に入っていきました。(決してアヤシゲな関係ではありません!)リマの一般家庭には風呂(バスタブ)の無い家が多く、シャワーもお湯が出ないところが多かったのです。風呂とトイレが同じ部屋にありましたので、女子はともかくも、男子は前を押さえ、ドアを叩いて「早く出ろ」と叫ばなくてはなりませんでした。男子がドアの外で顔をゆがませ、目を白黒させているとき、彼女は中で優雅に髪を乾かしていたのでありました。ペールの人が男女問わずコロンを使うのは、イワシ石鹸と風呂に入れないのが理由だったのでしょう。

中南米の気温が高い地域では、イケてる男子は首からゴールドのチェインかチャームをぶら下げ、手首にはゴールドのブレスレット、糊のきいた白系のワイシャツ(必ず長袖)は上から3番目までボタンを掛けず、コロンのニオイがプンプン、ズボンにはフランスやイタリアのブランドもののベルト(ほとんどがニセモノ)、といったスタイルです。お金持ちはキチンとスーツを着てネクタイを締めています。要するに、エアコンの入っているところにしか行かないのです。家からクルマに乗ってオフィスに行き、ランチもエアコンの入っているところにしか行きません。したがって、汗などかかないのです。スーツはお金持ちのシンボルです。

僕は、曲がりなりにもメーカーの代表者ですので、どこへ行くにも常にスーツ着用でした。しかも、某米国のゴールド・クレジット・カードを持っていました。当時、そのカード会社は日本に入ってきたばかりでしたので、会員数を増やすべく大キャンペーン中で、各企業の海外営業担当者に対しては特に積極的な勧誘を行っていました。当時の日本では、まだクレジット・カードそのものが普及していませんでしたが、海外では無いと不便だったからです。ということで申し込みましたら、おそらく会社の名前が効いたのでしょう、ゴールドで、しかも限度額300万円のカードが送られてきました。基本給だけの手取りで言えば、給料の1年分以上でした。確か電話でカード会社の人に、現地で代理店の人を集めて、ちょっとしたパーティーや内覧会をすると、すぐに100万円ぐらいになる。いまは山のようにT/Cを切っている、なんて話をした記憶があります。当時は米国でもゴールドは珍しく、中南米では発行していませんでした。僕は、それしか持っていませんでしたし、常に現金やT/Cを持って歩くのも怖いため、ちょっとした支払いでも、そのカードを出すしかなかったのですが、当時は初めて見る人も多く、Oh, you must be rich ! などと言われました。スーツにゴールド・カード。中身は薄給のしがないサラリーマンでしたが、見た目だけはリッチ・マンだったのです。

遠くに出かけるときや、夜遅くまで仕事をしたとき以外はタクシーで通勤しました。交通マナーがヒドく、自分で運転するとブチ切れそうになるからです。イタリアと同じで、先に頭を突っ込んだほうが優先というのが唯一の交通ルールです。朝からあちこちで接触事故を見ました。

アパートを出ると、まずタクシーを止めます。オフィスの住所を言って、いくらで行くか、という値段交渉から始めなくてはなりません。タクシーにメーターなど付いていません。最初は必ず3倍ほどの値段を言います。「それなら、他のタクシーに乗るから、あっちへ行け」と言うと値段が下がります。朝から疲れます。

輸入車(完成車)は、コロンビアでも同様でしたが、関税が100%以上でした。たとえば、給料が1万円の国でセドリックが600万円、BMWの3シリーズが1,000万円ぐらいでしたので、いまの日本で言えば軽く「億」の感覚です。したがってタクシーは、当時ペルーでノックダウン生産をしていたワーゲン・ビートルか、同じくノックダウンしていたトヨタ・コロナです。雨が降りませんのでワイパーなど付いていません。

金額交渉が終わると自分でドアを開けて前席に乗り込みます。殆どの運転手が、代金を先にくれと言います。そのままガソリン・スタンドに入り、2リッターぐらい給油します。ガソリン・タンクは常にほとんど空です。ガソリンを入れると重くなって燃費が悪くなると信じていますし、ヘタにガソリンを多く入れておくと、夜中に盗まれるのだそうです。タイヤはツルツル。溝など残っていません。いつバーストしても不思議ではありません。スピード・メータは動きません。走行距離が増えると売るときに安くなると思っているからです。アパートからオフィスへ行くにはセントロ(旧市街)を通ります。運転手の殆どはマリア像をダッシュに貼り付けており、カテドラルの前を通る時は必ず十字を切ります。カテドラルや大統領府のある広場を休みの日に散歩しますと、必ず何人かの画家が自分の描いた絵を売っています。僕はアレキパの古い建物や風景を描いた水彩画が気に入り、いまも何枚か自宅に飾っています。

タクシーで無事オフィスに着きますと、東京から届いたテレックスをピックアップしてから近所のイタメシ屋に朝食を取りに行きます。このイタメシ屋ではリマ滞在中、殆ど毎日、朝・昼・晩と食事しました。こういった国の常で、レストランはニューヨークの高級店並みの値段か、1食100円ほどの店しかありません。ペルー国内では高級店で使えるほどの食材が揃いませんので、食材はほとんど海外から航空便で取り寄せたものです。一般店は、月給が5,000円程度の庶民を相手にしますので、1,000円も取ったのでは客は来ません。このイタメシ屋と中華屋がその中間の貴重な存在でした。基本的にペルー・スタイルの中華よりイタメシが好きだったのと、そのイタメシ屋がイタリア系ペルー人の家族経営で、気の良い人たちだったからです。顔なじみになると、決まった席に座り、何も注文しなくてもその日の食材で、朝・昼・晩とメニューに無い家庭料理を作って出してくれるのも嬉しい心遣いというか、まるで自宅で食事しているような感覚でした。ペルーには日本系だけでなく、中国系とイタリア系も結構多いのです。そんな訳で、年のうち半分は朝・昼・晩とイタメシで過ごしていました。我が家がいまでも和食と同じような感覚と頻度でパスタやイタメシを食べるのは、僕がそうだったからだと思います。

たまにはイタメシ以外の食事もしました。確か松葉という名前の和食屋でした。ここの大将が、たまにマグロなど珍しいものが入荷したときに常連の日本人駐在員に電話で知らせてくれ、駐在員経由で僕にもお声が掛かりました。和食に関心の薄かった僕にも、あまりにも美味しくて感動したものがありました。それはウニでした。ペルーではウニは誰も食べません。リマの少し南に小さな漁港があり、その周辺でウニが大量に獲れるのです。誰も獲りませんので、その辺にいる子供たちに100円ほどのお小遣いを与え、ウニを獲ってもらいます。このあたりは寒流が南から上がってきますので、季節やその年の海流具合でウニが大量発生することがあります。1時間ほどすると、大きなバケツに何杯かのウニが獲れます。それを和食屋さんに持って行き、駐在員と家族が集まって食うのですが、これが美味しい。あまりにも安く、美味しかったため、一時期、僕はすっかりウニにハマってしまいました。スプーン二つで上手に殻が割れるようにもなりました。しかし、すぐに誰も付き合ってくれなくなりましたので、その後はアパートで黙々と、ひたすらウニだけを食べました。お掃除の人は、うず高く積まれたウニの殻を見て、気持ち悪く思ったに違いありません。おそらく、カブトムシや蝶の幼虫を食べるのを見て、日本人の多くが「気持ち悪い」と思うのと同じ感覚でしょう。やがて飽和点が訪れました。飽きてしまったというか、見るのもイヤになってしまいました。僕がいまでも寿司屋で殆どウニを食べないのは、そのためです。ウニはやはり海から上がったばかりのものでなければ美味しくありません。

マイッタのは工場の技術者とペルー料理屋で食事したときです。ごめんなさい。正直、ペルー料理で美味しいと思ったものは何もありませんでした。味覚自体が異なるのですね。食事が終わってアパートへ帰ると、いきなりお腹が痛くなり、トイレへ直行。上・下ともにヒドイ状態で、すっかり便器とお友達です。早速、日本から持ってきた強力な抗生剤を飲みましたが、なにせ水を飲んでも受け付けない有様で、さすがに3日目には脱水症状で立てなくなり、日本大使館に電話し、大使館付きの医者に点滴してもらいました。人脈は大切です。セビッチェという、魚や貝の酢の物のような料理ですが、魚介類はアタルと怖い。この時以外には、フィリピンで1回、ベネズエラで1回、同じような目に逢いました。

お腹をこわしたと言えば、苺にミルクを掛けて食べ、お腹をこわしたことがありました。その話を代理店の人にすると、苺は茹でなかったのか?ミルクは沸騰させなかったのか?と聞かれ、驚きました。スーパーで売っている苺にはバイキンが一杯だし、ミルクにもバイキンが一杯だと言うのです。苺はさっと湯を通し、ミルクは鍋で沸騰させてから冷蔵庫で冷やして飲むのが「常識」だそうです。ただし、ペルーのミルクは脂肪分が少なくマズイので、お金持ちは米国産の粉ミルクを飲んでいるのだそうです。某銀行の現地駐在員に聞いた話では、そのまま食べられるフルーツは柑橘類ぐらいだそうで、リンゴも煮て食べるのだそうです。そういえば、当時のペルーはWHOの分類では、非衛生地域に指定されていました。

ペルーはアンデスの反対側にアマゾンの源流があります。そこにイキトスという辺境の地があります。イキトスは隔絶された辺境の地ですので経済振興特区に指定され、税金が安かったり免除されていました。

少し奥には、かつて大掛かりなコカイン農場もあったとのことでしたが、1970年から1980年ごろに掛けて米軍がコロンビアのメデジン・カルテルを撲滅して以来、イキトスの経済は急激に悪化したそうです。トム・クランシーの「今そこにある危機」は、このころの実話を題材にしています。

イキトスの奥地で栽培し、それをコロンビアに運んで精製し、あの手、この手で米国に持ち込みます。イキトスからコロンビア国境までは北へ200キロほどしかありません。このあたりはペルーもコロンビアも管理が手薄ですので、ヘリだと「ひとっ飛び」です。コロンビアの北側はカリブ海に面しています。そこから中継地に使われたバハマまで船で運びます。

大手業者はバハマからボロい小型航空機でフロリダまでレーダーに捕捉されないよう超低空飛行し、いくらなんでも空港には降りられませんので、夜陰に乗じて高速道路に着陸し、飛行機はそのまま「乗り捨て」だったそうです。いくら改造して航続距離を伸ばしても、往復できる距離ではありません。しかし中古機とはいえ、飛行機を乗り捨てるぐらいですので、それどころではない売上だったのでしょう。

中小業者は高速船で運びますが、米国のコースト・ガードに発見されると撃沈されることもあり、リスクは高かったようです。中小だと一度に大量輸送して失敗すると次の仕入れのためのキャッシュ・フローに支障をきたしますので、やはりビジネスとしては「そこそこの量」で回数を増やすほうがリスクを分散できたのでしょうね。

零細業者は国際線のスチュワーデスやパイロットに少量を持たせてチョロチョロ運んだようですが、ちょうど僕が出張し始めたころに某ナショナル・フラッグ・キャリアーの職員が一斉に摘発され、それから厳しくなったと聞きました。ちなみに、この業界では、業界関係者が商品を使用すると真面目に働かなくなるため、即、クビになったそうです。

そういえば、中南米ではコカコーラのことをコカと呼ぶことがあり、米国で「コカをくれ」というと変な目で見られたそうです。ペルーでコーラと言えばインカ・コーラのことで、日本でいえば「みかん水」のような味の飲み物でした。ついでに、パナマではカフェ・アメリカーノで通じましたが、コロンビアやペルーでは、カフェ・ティント(赤ワインはビーノ・ティント)の方が通じました。

イキトスにも代理店の支店がありましたので視察に行きました。リマ空港でイキトス行きの飛行機に乗りますと、なんだか懐かしい気分になりました。よく見ると機内の側面に扇と鶴の模様が入っています。トイレに行くと、「禁煙」という日本語の注意書きがありました。日本航空から中古で買ったDC-8をそのまま使っていたのです。感動しました。DC-8は乗りたいと思って乗れずにいた飛行機だったからです。スーパー61は少々間延びした感じがしますが、ショート・ボディは美しい。離陸する姿を前から見ますと、まるで鶴のようです。どこか1/72でDC-8を出してくれないものだろうか。

やがてイキトスに着くと、空港まで代理店の社員が迎えに来てくれていました。ホテルに入り、荷物を解いてレストランに食事に行きました。ホリデイ・インでしたが、当時のイキトスでは唯一のマトモなホテルでした。ちなみに、クーラーがないと暑くて寝られませんでしたが、このクーラーが古いウェスティングハウス製で、ガ~~という振動と騒音で、初日は一睡もできませんでした。

メニューには結構なアイテムが載っていましたが、注文すると、次々と、「今日は、それはない」と言われます。仕方がないので、何が出来るの?と聞きますと、魚のグリルが出来ると言いましたので、それを注文しました。白身の魚で、意外や意外、美味しくいただき、翌日もリピートしました。アマゾンですので海の魚はありません。何ていう魚?って聞きましたところ、パイッチェだと言われました。どんな魚か分からなかったのですが、数日後の休日にアマゾンの自然を展示したような簡単な公園というか動物園を訪れ、パイッチェってどんな魚?って聞きましたら、なんとピラルクでした。イキトスでピラルクは高級魚で、売店ではピラルクの鱗を型押しした携帯靴べらを売っていました。

そこには馬を飲み込んだアナコンダといわれる白黒写真が展示されていましたが、なんだかウソクソくさい写真でした。超巨大アナコンダはブラジルでも都市伝説というか、ネッシー伝説のようなもので、俺は見た、生物学的にありえない、などと一時期、大論争になりました。

その動物園の前に警告板があり、そこには大きく「ピューマを捕獲、販売すると罰せられる」と書いてありましたが、その横でピューマの毛皮を売っていました。本物かどうか分からなかったので、ちょっと声を掛けてみましたが、「ここに書いてあるようにピューマは捕獲できない。これは病死したピューマだから捕獲ではない。たいへん貴重なものだ」などと一生懸命説明してくれました。

イキトスは熱帯地域ですので、果物も日本では見ないものが多くありました。なかでも感動したのはチェリモヤでした。甘く、どことなくマスカットを思わせるような香りのフルーツです。中に大きくて黒い種があります。ベネズエラ市内の道端にズラっと植えてあるアボカドのように、そこいらじゅうに山ほどあるフルーツのようで、イキトスでは道端で1個10円ぐらいで売ってました。ただし、食べる時期が難しく、早すぎても、遅れても美味しくないところが落とし穴。一時期、日本にも輸入されましたが、マズかった。これは生成り完熟で、しかもベスト・タイミングで食べなくてはならないフルーツです。

ひと口も食べられなかった料理もありました。代理店の人に、このあたりのローカル・フードが食べたい、と言ったら連れて行ってくれた店で、野菜と鼠が煮込んであり、その横にライスが添えてありました。野菜と肉はなんとか食べましたが、ライスは食べられませんでした。ライスの中に黒いツブツブがあり、じ~と見ますと、なんと、それは蟻でした。世界中で蟻を料理に使う国は、実は多いのですが、僕は食べる気にはなれません。蟻酸というか、あの臭いがニガテなのです。タイのゴキブリ(本当はミズスマシ)も食べられません。

アレキパで食べたザリガニは美味しかった。アレキパは、日本ではお馴染みがありませんが、ペルー第2の都市です。代理店のオーナーは若い兄弟でしたが、その父親がアレキパで羊毛の会社をやっていました。兄はなかなかのビジネスマンで、弟は少々ピントがズレた感じですがイイヤツでした。休みの日にご招待を受け、飛行機でアレキパまで行きました。食事に行ったレストランで、「おお、今日はシュリンプがある。シュリンプは好きか」と聞かれましたので、こんな山の中で、なぜシュリンプがあるのだろう、と思いつつも、大好きだと答えると、出てきたのはザリガニでした。これが実に身が甘く美味しかった。高地の清流にいるザリガニだそうで、最近は数が減ったと言っておられました。リマにも食べられるところはあるそうですが、きわめて高価だと言っておられました。もちろん、僕ごときが行ける価格帯の店ではありません。僕と彼は、その日、その店にあったザリガニを二人ですべて食べてしまいました。

彼は羊毛がビジネスの主体でしたが、それ以外にアルパカやビキューナも放牧していました。ベビー・アルパカは毛を刈ると死んでしまいますので、流通自体が法律で禁止されていました。ビキューナも同様で、絶滅の危機にあったため、流通自体が禁止されていました。彼はビジネスではなく、単純に自宅用に飼っていたのです。僕は学生時代に英国で聞きかじった羊毛の知識を総動員し、彼の扱っている羊毛を褒めちぎりました。アレキパの町自体が標高2,000m以上の高地にあり、彼の牧場は更に東北の山岳地帯にありましたので、英国のハイランドと同じく、捩れが少なく、長さの揃った良い羊毛だと思いました。細い割りに「張り」がありました。残念ながら染色と織りの技術や設備が無かったため、殆どが刈り取ったまま輸出されていると聞きました。

意外だったのでしょう、彼は僕に多少ながらも羊毛の知識があることに驚いていました。ひとしきり話をしたところへ彼の奥様がお茶を持ってきてくれ、僕の家内は編み物が好きで、僕と子供たちのセーターは殆どが家内の手編みです、と申し上げますと、とても喜んでくれ、それなら少し毛糸を持っていきなさいといって彼女のストックの中から貴重なベビー・アルパカとビキューナをいただきました。彼女も編み物が好きだったのです。ベビー・アルパカは、本来ナチュラル・カラーのもので、同じ色同士を集め、それで模様を編み上げるのです。最近は普通のアルパカを化学処理して軟らかくしたベビー・アルパカと称するものや、脱色して染めたものが多く流通していますが、やはりナチュラルのものがもっとも美しい。同じ色に見えても、ナチュラルのものは1本ずつ微妙に毛の色が違うため、すぐ分かります。チャコール・グレーと言っても、良く見ると毛の色に濃淡があり、それが良い風合いになっています。ビキューナは繊維自体が細いため、セーター1枚分と言っても、集めるのは大変です。そのときいただいた毛糸で編んだセーターは、すでに30年経ちますが、いまだに愛用しています。当然ですが、洗濯しても色落ちや色あせは一切ありません。自宅用でしたので、糸にして円錐形の巻き芯に巻き取ったままの状態でいただきました。糸の太さも均一でなく、市販品のように洗練されていませんが、なによりも風合いがよく、軽くて柔らかくて暖かい。僕が死んだら解いてスチームで伸ばせば、また編み直し出来ます。もし娘や息子の嫁が、将来、編み物をすれば、の話ですが。

彼とはその後も何度かお逢いしましたが、そのたびに「会社を辞めて、アレキパに来ないか」と誘われました。二人の息子はリマに住み着き、娘はドイツ留学中にドイツ人と結婚してしまったため、彼の会社にはあと継ぎがいなかったのです。まあ、冗談だったとは思いますが、もし、そのとき家族揃ってアレキパに移住していれば、どんな人生だったでしょうね。

空港まで送ってもらうと、帰りの飛行機はすでに到着していました。ところが、どうやら前輪のタイヤがパンクしたらしく、タイヤを取り外していました。トラックに積んで町のほうへ出て行きましたが、3時間ほど帰ってきませんでした。その間に荷物を積み込んでいましたが、カーゴ・ドアがロックしないらしく、何度も、何度も、ドンッ、ドンッと閉めなおしていました。飛行中もなんだか不安で、リマに着陸するまでドキドキしました。1987年には、リマのサッカー・チームが乗った航空機がアレキパからリマに向かったものの、リマの近くで海に落ち、27人の選手全員が死亡するという事故がありましたが、そのニュースを聞き、無理も無い、と思いました。

何が理由だったのかは覚えていないのですが、代理店が1週間お休みになり、その間に代理店の人と、前々から行きたかったナスカとマチュピチュへ車で出掛けました。

ナスカではセスナに乗って空から地上絵を見ました。朝の、光が横から差すときが最もハッキリ見えると言われ、朝早くホテルを出て民間飛行場へ行きました。民間飛行場と言っても舗装してあるわけではなく、単なる広い空き地でした。日本で言えば高校生ぐらいの「メカニック」が何やら作業をしていましたが、それでも30分ほどでエンジンは掛かりました。ところが飛んでいる間もエンジンは不調で、プルン、プルンと何度も止まりそうな気配でした。ひと通り地上絵を見たあと着陸したのですが、タイヤが地上に付く直前に、エンジンが止まりました。それでもセスナのレシプロ機ですので着陸自体に問題はありませんでした。地上絵の真ん中に国道が走っており、そこにも小さなタワーがありますが、殆ど見えません。ナスカで嬉しかったのは、地上絵を発見した一人でもあり、その後は研究と保護に努められたマリア・ライヒェ女史にお逢いできたことでした。当時はクスコの郊外に住んでおられ、彼女の著書を購入すると本にサインをしてくれました。

ナスカから、また延々とクルマを走らせ、マチュピチュのふもとの町に着きました。最近、テレビで見て観光地化されているのに驚きましたが、当時は道路も中心街以外は舗装もされてない閑散とした村でした。そこからロバに乗ってマチュピチュ遺跡まで細い道を延々と登るのですが、ロバは疲れます。腰が痛くなりましたので途中で降りて、あとは歩きました。やっと到着した遺跡の第一印象は「草ボーボー」で、あとは「テレビで見た通り」で、すぐに飽きました。どうやら僕はこういったものに興味が持てないようです。学生時代にバスでボストンから時計回りにアメリカ大陸を横断し、やっとグランド・キャニオンに到着したときも、5分ほどで飽きてしまい、乗ってきたバスにそのまま乗って西海岸に向かいました。僕は基本的に名所旧跡には一切の興味は無く、かれこれ30回以上はロンドンに行きましたが、バッキンガムも時計塔も、タクシーの中から1回チラっと見ただけです。そのかわり、美味しい店や自分の好みのモノが買える店は良く知っています。

リマでは何度か言われなき「罰金」を要求されたことがありました。国内出張から帰ってきたときには空港でパスポートの提示を求められました。落としたり盗まれると困るので、僕はコピーを持ち、本物はオフィスの金庫の中に入れてありました。すると彼は、それは法律に違反しているので逮捕すると言いました。法律では、外国人は常にパスポートを携帯しなければならないことになっていますが、駐在員でも常に本物を携帯している人などいません。警察を呼んでくれ、と言いますと、彼が警察官でした。困った僕は、代理店のオーナーに電話しました。警察官に電話を替わってもらい、短い会話が終わりました。警察官は罰金は米ドルで10ドルであると言いました。日本の交通違反のように、違反切符を切ることも無く、ただ、10ドルを彼に渡しました。彼はパトカーで僕をアパートまで送ってくれました。車中で話すと、実はとてもフレンドリーなヤツで、空港で困ったら呼んでくれ、と言われました。

郊外を車で走っているときにも、警官に止められました。内容はまったく同じです。ピンときた僕は「罰金を払う」と言い、10ドル札を出しました。彼は、それを受け取ると、行け、と言ってくれました。代理店の人によれば、非番のときに外国人を狙って小遣い稼ぎをしているのだそうです。

「罰金」以外にも、よく「税金」を支払いました。いつも日本から、お世話になっていた日系2世のご夫婦に食料品をお土産に持っていったのですが、運悪く空港で見つかりますと「税金」を支払わなくてはなりません。彼らの言うことは同じです。これを没収する。仕方が無いので、僕は税金を払う、と言って10ドル札を渡します。もちろん、領収書などくれません。

東京で精算するときに困ったのは、「税金」や「罰金」の処理でした。経理部の担当者が品川税務署に相談しましたが、理解はしてくれるものの、なかなか良いアイデアは出ませんでした。領収書すらないのですから。そこで社内的には「紛争解決金」と記載し、経理的には出張手当を、その分、増やしてもらいました。

あれだけ経済が悪くなっても、なぜかテレビやビデオはよく売れました。いったい、誰が買っているのだろう、と思うと、これが「普通の人」です。彼らに高価な電気製品が買えるのには理由があります。たとえば、空港の駐車場でもティケットというか領収書を渡すのは、せいぜい3人に一人ぐらいで、基本的には要求しないとくれません。こういったポッポナイナイは大なり小なり、社会のあらゆるところで見られます。したがって彼らには給与以外の収入があり、それで様々なモノを購入するのです。いわゆる貧民街に行くと、電気は盗電。電柱から引いてきた違法な電線を蛸足配線で勝手に分けています。分かっていても、その電線を切ると事務所が襲撃されますので、見て見ぬ振りです。

リマの貧民街に住める人は、まだ幸せです。空港から市内に向かう道には段ボールで囲っただけの「住居」が多数あり、当然ながら、電気も水道もありません。

給与以外の収入と言えば軍や警察も同様で、空軍が金を取ってヘリで遊覧飛行をしたり、空港の無い町まで送る、なんてことも「アミーゴ」さえいれば可能でした。イキトスでアマゾン川を走り回って僕を案内してくれたのは警察のボートでした。リマのサッカー・チームを乗せて墜落したのは空軍の輸送機でしたが、そのときは車輪が出ず、胴体着陸するために燃料を放出したら、空港の手前でガス欠になり墜ちたと聞きました。当時、ペルーで使っていた軍用機は、多くが旧ソ連製だったのです。

僕も何度か旧ソ連製の旅客機に乗りましたが、欧州で墜落事故が続いたため、会社から「ソ連機に乗るな」という、お達しが出ました。ブルガリアのソフィアでベルリン(東独側)行きのアエロフロートを待っていましたが、いつまで経っても到着せず、翌日の新聞に「行方不明になった」という記事が載ったこともありました。仕方がないので、ルフトハンザ、ウィーン経由のフライトででベルリン(西独側)へ飛びました。そういえば、学生時代にもジュネーブのホテルで、朝、寝過ごしてしまい、予定していたフライト(イベリア)に乗れず、翌日のフライトに変更したところ、乗るはずだったフライトがパリ郊外で墜落し、日本では家族や家内(当時は、まだ結婚していませんでした)が外務省に問い合わせて大騒ぎしたことがありました。旧ソ連の旅客機は、外から見ると米国製と変わらないように見えますが、中は構造材が剝き出しでしたし、シート・ベルトは布の細いもので、離陸や着陸の時は機体全体が振動しました。しかし、当時キューバ・エアラインに乗るとビジネス・クラスでもキャビアを出してくれ、いつも客など10人ぐらいしか乗っていませんでしたので、キャビアが食べ放題でした。

ジェトロの現地事務所に行って彼らが独自に集めた様々な経済指標を見せてもらうと、ペルーやコロンビアには産業以外にセルビシオ、つまりサービスと言う項目があり、これが結構大きな数字です。それほど大きな観光収入があるわけでもなく、知的財産による収入があるとも思えません。これは何ですか?と聞きましたところ、基本的にはモノを伴わない海外からの送金のことで、一般的には出稼ぎの送金などと説明されているものの、実際は麻薬や闇屋の収入の一部で、国内従事者が生活するのに必要な資金、と説明してくれました。こういった組織は売上の殆どを米ドルでパナマや、最近よく聞くタックス・ヘイブンの国にプールしますので、表には出ません。したがって実際には、この5倍から10倍ぐらいはあるのではないか、とも説明してくれました。リマには闇ドル屋がおり、現地通貨から米ドル、あるいは米ドルから現地通貨に交換してくれました。海外へのドル送金が禁止されたときは、闇ドルを買って、それをアタッシュ・ケースに詰め込んで、パナマの日系銀行支店まで運ぶ、なんてことが実際に行われました。多くの日系企業にとり、これしか売上を回収する方法が無かったのです。

こういった国の経済は、誰にも実態は見えません。

夜はテレビにも興味が持てる番組が無く、毎晩ラジオをつけっぱなしにしていました。深夜に放送されるCasey KasemのAmerican Top 40 だけが夜のお楽しみでした。日本の情報は皆無と言ってよいほど入ってきませんでした。新聞に日本関連の記事が掲載されることはなく、知り合った某日系銀行の現地駐在員のところへ一週間遅れで送られてくる日本の新聞や雑誌を、週に一度程度の頻度で駐在員が何人かで集まって昼食をとりながら回し読みするのが唯一、情報のアップデイト方法でした。ある日、現地の新聞に小さく、東京で大きな地震があったという記事が載りました。慌てて自宅に電話しましたが、棚の上のものが落ちた程度で、大したことはない、と言われ安心しました。当時、日本へ電話すると、きわめて高く付いたのです。しかし、情報が途絶するというのは、このうえなく不安なものです。

ペルーには多くの日系人がいます。僕が行ったころは、まだ最後に移民した一世の方も少数ですが残っておられました。入植後苦労をしてこられ、第二次大戦時でペルーは兵士は派遣しなかったものの連合国側に付きましたので弾圧され、第二次大戦が終わったあとも日本政府は長い間ペルーの日系人を援助しませんでしたので、彼らは母国に捨てられたという感情を抱きながら、再びゼロから生活を立て直してきました。ところが日本が奇跡と言われる経済復興を果たすと、そういった苦しい過去を持たない、知らない、若い日本人が強力な日本経済をバックに、駐在員としてペルーへやってきました。最初は日系人の殆どが駐在員を歓迎しました。しかし、感覚の違い、生活の違い、歴史の違いは徐々に溝を広げたそうです。

日系人は、2世も含め「戦前の日本人」です。特に2世は日本を知りません。戦前の日本を両親から「伝聞」として聞いているだけです。苦しい、経済的にも恵まれない中、日本人としての誇りを持て、と言われて育ってきました。

駐在員は、僕も含め、「戦後の日本人」です。極端な言い方をすれば、米国が作った日本人であり、同じ日本語を話しますが、まったく異なる価値観を持つ人種です。経済的に恵まれた駐在員は、住むところも、生活レベルも、まったく異なります。僕がたまに訪れた日本料理屋も、来るのは駐在員が殆どでした。ペルーの一般的な物価からすると、きわめて高価です。日系人は国籍上、ペルー人です。日本大使館の一義的保護対象ではありません。日系人と駐在員の間には、ほとんど交流が無くなったと聞きました。

皇室の方が中南米を訪問され、日系の方が日本の旗を振って歓迎しておられるニュースを見ると、日本人って何なのだろう、国籍って何の意味があるのだろう、って思ってしまいます。

辛いことも数多くあり、ビックリしたことも数多くあり、楽しいことも数多くあったリマでの滞在でしたが、総じてプラス評価だったか、マイナス評価だったかと言えば、圧倒的にプラスです。僕はいまでも当時の生活を懐かしく思い出します。よく、他人のような気がしない、という表現が使われますが、ペルーのことは、まさに他国のような気がしないのです。