英語はムツカシイ

オバマ大統領が会見で使った regrets という単語の翻訳について日米で見解が分かれていますが、会見で使われる言葉だけでなく、条文でも同じです。英語版と日本語版で受け取られ方が違う、なんてしょっちゅうあることです。TPPの内容だって本音のところは何と書いてあるかアヤシイものですし、沖縄返還のときも、日中国交正常化のときも、どういう解釈で合意し、どういう言外の含みというか、暗黙の了解があったのかは、おそらく100年経っても国民には分からないのでしょう。

今回はスピーチが英語で行われ、米国側から日本政府による翻訳文に対し、誤解をまねきかねないとしてクレームがつき、日本側が日本語表記を訂正したということのようですが、これは極めて稀な例ではないでしょうか。条約や合意文章などの場合、最近では相手国の言語版と日本語版の両方が正本だと思いますので、お互いが国内向けに都合の良い解釈をし、それについて相手を批判しないというのが慣例のように思います。欧州憲法条約は21か国の言語が正本だそうです。したがって、お互いの意向が少しズレているときなど、実際の交渉を行っている事務官が、お互いに都合よく「広く解釈できる」言葉を探します。まさに「タマムシイロ」の世界です。日米が何かの合意をしたとき、CNNを見ると日本とはまったく異なる解釈がされていることに驚くことがあります。安倍首相が米国議会で行った演説でも同様でしたね。「こうするつもり」というのを、前後の文脈から「こうすることを約束した」と受け取られることもあります。そう言えば、trust me で国家間の信頼関係をブチ壊した人もおられました。たとえオフレコでも、こんな言葉を軽々しく使うものではありません。相手は100%の保障をしたと理解します。せいぜい Will try my best ぐらいにしておくべきでした。

つい最近も、某国との合意の中で、日本語表記で「努力する」という言葉が使われ、これが議論の的になっています。お互いの国の言葉で、どう書かれているのかは知りませんが、努力の結果として何らかの現実的な成果が上がることが前提なのか、なにもせず「努力したけどダメだった」でもOKなのか、このあたりになると翻訳の域を越えた、戦略の問題でしょう。このところ、こういった解釈の違いを突かれ、日本は何だか不利な合意ばかりしているような気がします。

まあ、そんな大きなことは僕が心配しても、どうにもならないことではありますが、卑近なことでも、外国語、特に英語は日本だけでなく世界中に溢れているだけに、ムツカシイと感じます。

英語が少し話せるようになると、しゃべりながら英語で考えます。日本語で考えて、それを英語に直していたのでは、会話など成立しません。しかし、英語を日本語で説明しなくてはならないときは苦労します。その英語の単語にピッタリくる日本語がなかったりします。

反対に、日本語の「よろしくおねがいします」なんて、どう訳すれば真意というか、気持ちが伝わるのか、悩んでしまいます。日本語の「敬語」を訳するときも、その気持ちの度合いを伝えることは、かなりの上級者テクニックです。

よく英語には敬語がないと言われますが、英語にも敬語はあり、へりくだった表現もあります。Do XXX. Please do XXX. Can you do XXX. Could you do XXX. Could you please do XXX. I’ll be happy if you could do XXX. It will be appreciated if you could do XXX. などなど、その他にも同じ、あるいは似た意味で異なる表現は山ほどあり、それぞれに相手に与える印象は異なります。日本語でも同じですが、そういった言葉の使い方ひとつで教育程度や「お育ち」を想像されてしまったりします。反対に、日本語がよく分からない外国人に初対面で「お前」呼ばわりされたら、同じ「あなた」を指す意味の単語だと分かっていても、気を悪くしませんか?

最近は日本語がそのまま海外でも使われる機会が増えてきました。外出語?とでも呼べば良いのでしょうか。最初に米国の新聞で yakuza という単語を見たときは驚きました。いまや米国人の殆どは yakuza を理解すると思います。反対に言えば、それだけ多くの回数、yakuza という言葉が使われているということです。最近では anime や tsunami は世界中で広く一般的に使われます。 Oxford dictionary が 2015 word of the year に選んだのは emoji でした。用例としてヒラリー・クリントンのツイッター・メッセージが挙げられています。オバマ大統領が5月27日に行った Hiroshima Speech では hibakusha という単語が繰り返し使われました。Oxford では a survivor of either of the atomic explosions at Hiroshima or Nagasaki in 1945 と説明されています。今回のスピーチは世界中で報道されました。これにより、世界中でもっと広く hibakusha が理解されるようになると思います。

<追記>

舛添要一前東京都知事が辞任を発表したことを報じたNYTの記事に使われたsekoiという単語が日本で話題になりました。おそらく、この単語が米国の主要メディアで使用されたのは初めてでしょう。記事の中で「The word that has perhaps been most frequently used to describe the episode is sekoi, meaning cheap or petty.」とsekoiの意味を説明しました。おそらく日本語をよく理解する東京特派員がセコイという単語にピッタリの英単語が思いつかなかったため、敢えてsekoiとそのまま使ったのでしょう。確かに、みみっちい、細かい、ずるい、ケチ、人間的に小さい、など様々な意味を内包した言葉で、これに「ひと言」で合致する英単語は、僕には思いつきません。

「その言葉、そのもの」を端的に表す日本語がある場合や、日本語で表記したほうが平均的日本人には遥かに理解され易いにもかかわらず、わざわざ英語を使うのも考えものだと思います。先日もテレビで、「個性」のことを、わざわざ individuality なんて言っている人を見て、「アホか」と思いました。反対に新しい概念が入ってきた場合、それを日本語で表現するより、英語を「そのまま」使ったほうが分かり易い場合があります。最初は奇異に見えても、すぐに浸透します。最近多くの企業が使う「企業コンプライアンス」なんて言葉も、その例だと思います。企業が遵守すべき法やルール、なんて説明していると、まどろっこしい。

明治時代、日本は海外の概念を取り入れるため、新しい日本語を山ほど作りました。その多くが、現在では外出語として日本だけでなく中国や韓国でも使われています。韓国は表示そのものは漢字からハングルになりましたが、言葉としては「そのまま」使われています。中国など、国名そのものに日本が作った単語を使っています。中国の憤青諸君は、日本製自動車を壊すより先に、まず中国の国名を変える運動をした方が良いのでは?

なんでもかんでも、新しい日本語を作らなくても良いとは思いますが、少なくとも、外来語を使う場合は、もっと慎重になるべきだと思います。かつてフランスで、コカ・コーラを男性名詞として扱うか、女性名詞として扱うのかで大論争になったことがありました。ラテン語には男性形と女性形があるからです。

翻訳や通訳ほど難しいものもありません。最初に短い英語の文章を日本語に直します。次に、その日本語を英語に直します。これを2-3回繰り返すと、おそらく最初の英語とは、まったく違う文章になっていると思います。同じ文章を聞いても、聞く人によって受け取り方、あるいは頭の中に描くことが異なるからでしょう。

単語の持つ意味通りに変換しても、まったく意味が通じない、あるいは雰囲気や感情が理解できないことも多くあります。機械式翻訳は、まさにその典型です。機械式翻訳を信じると、わけが分からないだけなら良いのですが、とんでもない誤解をすることがあります。

よく例として挙げられるのは、明治時代に誰かを接待し、そのときに、「何もありませんが、、、」という枕言葉のような日本語を There is nothing but …. と英訳したという話です。これはnothing special 、あるいは nothing surprising ぐらいに訳さなくてはならないという例え話です。それは英語から日本語に翻訳するときも同じです。

いい翻訳、あるいは通訳をするには、その言語を使う国や社会の状況、歴史、あるいは文化的背景が分かっていなければなりませんが、それ以上に、日本語のボキャブラリーが豊富でなければなりません。上手な人ほど「意訳」が増えます。もとの言葉と1対1でなくても、文章全体としてお互いが同じレベルで理解できる言葉で表現します。言葉の背景を付け加えて説明することもあります。

アポロの同時通訳で有名になられた西山千さんとは、サラリーマン時代に何度か親しくお話しする機会をいただきました。社内で翌年度、全世界で1年間使う(英語の)スローガンを募集したとき、僕の応募作を選んでくれたのも西山さんでした。彼の通訳は日本と米国の社会や文化に関する膨大な知識と経験に裏づけされたもので、違和感なく、スーと頭に入ってくる素晴らしい意訳でした。彼に通訳のコツを伺ったことがあります。言葉のひとつひとつではなく、言っていることの内容や情景を絵のように頭の中で描き、それを日本語で表現している、とおっしゃったと思います。それが意識下で同時進行的に出来るのですから、僕にはひっくり返っても、真似はできません。

同じ英語の単語でも、使う国によって意味が違う、あるいは使われ方が違うことも珍しくありません。サラリーマン時代に先輩から「中南米の人が使う英語のXXXと言う単語は、本来の英語だとXXXの意味だから、ぬか喜びしないように」なんて言われたものです。スペイン語と英語には似通ったスペルや発音にもかかわらず、意味が違う単語があるからです。

どの国でも、外来語が入ってくると、本来の意味とは違う意味で使われることが少なくありません。よく言われる「日本語英語」は、その典型です。たとえば service という単語を、長い間、日本では何かをタダでくれたり、価格を引いたりする場合にのみ使ってきましたが、それは本来の意味というか、主たる使われ方ではありません。サービスを「奉仕」と翻訳したことから生まれた誤解だったのではないかと思いますが、気になる方は Oxford で service を引いてみてください。

また、意味として合っていても、それで想像するものが違うということも日常的に起こります。たとえば、apple はリンゴですが、apple color というと、日本では赤色を想像するものの、国によっては緑色、すなわち green apple を想像します。基本的には同じ意味を持つ単語でも、それを聞いて思い浮かべるものが違うということはたくさんあります。「バイク」と言えば日本ではオートバイですが、海外で bike と言えば、ほとんどの人が自転車を思い浮かべます。日本では、おそらく motor-bike の motor が取れたのだと思いますが、日本以外では motorcycle というのが一般的だと思います。

この仕事を始めたころに困ったのが、海外に部品を発注するときに、英語でどう表現するのか分からなかったことです。「顧問」に教えていただき、同じ部品の表現を5ヶ国語で表示した辞典も買いましたが、それでも誤解は起こりました。何度か高い月謝を払ったのちに分かったことは、必ず部品表で部品番号を探し、部品番号で発注しなければならないという単純なことでした。

また、学校で教えられた英語が必ずしも正しいとも限りません。というか、間違いとして教えられた発音や使い方をする人も少なくないという意味です。たとえば、僕は often の t は発音しないと教えられましたが、t を発音する人は英国にも米国にも少なくありません。英国で、いわゆるクイーンズ・イングリッシュを聞くことは殆どなく、ごくごく一部の人とアナウンサーぐらいしか使いません。ロンドンでも街中じゃあ、多くの人が 8 をアイトと発音しますし、today はトゥダイ、bus はブスです。

田舎はもっと訛ってます。僕が何度も訪れたスゥインドンの郊外など、まるで東北弁です。なにせ20年ほど前ですら、道には牛のウンコがそこいらじゅうに落ちており、タイヤでウンコを踏まずに通行するのは不可能なぐらいの田舎です。朝には猟銃を持ったオジサンがキジをぶら下げて歩いていました。B & B のオバチャンなど、ゆっくり話してもらっても、訛ったまま、ゆっくりしゃべるだけですので、多少は英国の訛りを理解していたつもりの僕でも、訛りの特徴が把握できるまでは何を言っているのかすら分かりませんでした。しかし、近くにあった運河をボートで移動している人を見ると、まるで時間が止まったように感じたものです。ボートで運河を1か月ほど旅行してみたい。英国には細い運河が張り巡らされており、なかには船を家にしてあちこち移動している人もいます。

スゥインドンと言えば、小林彰太郎さんにご紹介いただいたロナルド・バーカーさんが山のように大きな1900年代と思しきルノーで連れて行ってくれたパブのシュリンプ・サンドイッチは驚くほど美味しかった。いまでも僕は新鮮な川津エビが手に入った時は、軽くさっと茹でたらすぐにセッセと殻を剥いてマヨネーズ合えにし、シュリンプ・サンドを作ります。マヨネーズの代わりにカクテルソースを使ったサンドイッチも美味しい。バーカーさんはグルメでもあったらしく、違う機会に連れて行ってくれたレストランの鴨とタニシ(?)も抜群に美味しかった。ガトウィック空港の近くにあった古城のようなホテルで食べた肉の煮込みもウマかった。英国はメシがマズイと言われますが、行くところへ行けば、美味しいものが食べられます。まあ、数は少ないのですが。

最近の日本ではニュースや日常会話にも英語がそのまま使われる機会が増えてきましたが、本来の意味とは違う意味で使われることも多々見られます。それを、そのまま英語で使ってしまうと、意味が通じなかったり、思わぬところで恥ずかしい思いをしてしまうことがありますので、聞き慣れない単語や、ン?と思ったときは辞書を引いて本来の意味を確認することにしています。

「辞書を引く」といえば、和英辞書によれば「辞書に相談する」という表現が最初に出てきますが、僕は寡聞にしてこの表現をした人の記憶がありません。look up か check しか記憶にありません。そもそも、考えてみれば、日本語では、なぜ「引く」なのでしょうね。

僕がむかしから気に入っている英語の表現に it rains cats and dogs があります。ドシャブリ雨のことです。http://www.oxforddictionaries.com/definition/english/rain-cats-and-dogs

実際には、この表現を聞いたことは一度もありませんし、むかし米国人の友人に聞いたら、「知らない」と言いました。おそらく、この古い英国の表現を知っているのは日本人だけではないでしょうか。語源には諸説あり、1700年代にはすでに存在していたようですが、確たるものはないようです。https://www.loc.gov/rr/scitech/mysteries/rainingcats.html

しかし、面白い表現じゃありませんか。わざと「いやあ、昨日はイヌネコだったね」なんて言って笑ってもらえるのは、僕と同年代でマジメに「受験英語」を勉強した人に違いない。受験英語の多くが、一般的に使われない英語だということを、海外に出て知りました。今でもそうなのでしょうかね。

僕が英語に興味を持ったのは、子供のころにFENで聞いていた米国の音楽がきっかけでした。中学に入って英語を学び始めても、簡単な単語しか並んでいないのに、サッパリ意味が分かりませんでした。しかし、気に入ってフレーズごと覚えてしまった曲も少なくありません。

特に、1950年代から1960年代の米国音楽にはオシャレな表現が、それこそ「山ほど」あります。しかもシンプルでストレートです。いま使うと少々こっ恥ずかしいものもありますが、古い歌がいまでもエバーグリーンとして違うアーチストにより何度も何度も再ヒットしているのを見ると、平均的英米国人は基本的にロマンチストというか、彼らには「その年代」に対する憧れが強いのではないかと思います。少し前に、エルビスの Can’t help falling in love をロックでカバーしているのを聞いた時は、最初はさすがにビックリしましたが、これはこれで悪くない。とはいうものの、ヒネリがない。ギターと歌が、もう少し上手で、サウンドがもう少し厚いと買ったかもしれません。しかし、これを「恋に落ちるのを助けることができない」と訳したのでは意味が通じませんからね。

最近は、米国の曲でも日本での曲名を「そのままの英語」とするのが普通になってきましたが、かつては、日本語に翻訳した曲名をつけていました。曲の内容とは関係なくても「恋のXX」、「悲しみのXX」、なんて曲名を付けると売れる、なんてこともあったと聞きます。

僕が知っている最高の翻訳は To know him is to love him という曲の邦題でした。「あなたに恋してる。あなたが微笑むだけで生きていて良かったと思う。早く私に気付いて」みたいな内容の片想いソング。オリジナルは1958年のテディー・ベアーズ(フィル・スペクター)で、これをなんと「逢った途端に、ひと目惚れ」と訳しました。Peter & Gordon もカバーしており、これは To know you is to love you とし、「つのる想い」と訳しました。いずれも、少し違うといえば違うのですが、雰囲気というか、恋する気持ちはじゅうぶん以上に伝わってきます。まさに意訳の極致です。

反対に、世紀の大誤訳もありました。The Assosiation の Never my love です。「君は、いつか僕が君に飽きてしまうんじゃないかって心配するけど、そんなことは絶対に(never)ないよ、私の愛する人よ(my love)。君こそ僕の人生そのものなんだ」といった感じの内容ですが、これを邦題では「叶わぬ恋」なんて真逆の意味に訳してしまいました。それでも、日本では「そこそこ」ヒットし、当時のラジオ番組では「失恋ソング」としてリクエストされたりしていました。

曲には、その曲が流行ったときの社会的背景があり、その曲を聴くと当時の状況が走馬灯のように頭の中に蘇ると言われます。単に言葉上の意味だけではありません。僕は学生時代に英国のサマー・スクールに参加したことがありました。10人ほどの日本人が英国の田舎町にホーム・ステイし、語学の研修を受けるというプログラムでした。詳しくは別項の「ライフスタイル」をご覧ください。フェアエル・パーティーの最後に、僕はギターを弾きながら We’ll meet again という曲を歌いました。歌詞が、その時の僕の気持ちにピッタリだと思ったからです。最初は、「最も東の国」からやってきた20歳の学生が、こんな古い歌を歌ったことに驚いていたようですが、最後のほうになると全員が大合唱で、なかには泣き出す人も現れました。僕は「なんと、大げさな」と思いましたが、実は、多くの人がその曲に特別な感情を持っていたのです。

この曲は Vera Lynn により、1939年の英国で大ヒットした曲です。戦後、ミュージカルや映画の題材にもなっています。しかし、そのとき僕はそういったことを知りませんでした。ただただ、歌詞の内容でしか理解していませんでした。「いつか、どこかで、また逢えるよ。だから笑って送り出して」というだけの単純な内容ですが、その曲は数多くの若者が兵士として明日をも知れぬ戦場へ出ていった時代を背景にしています。生きて戻ってこれる保証などありませんし、実際に、戻ってこなかった人も多かったでしょう。終戦から25年経っていました。終戦の時に20歳だった人は45歳。僕たちの世話をしてくださった方は、ほぼ全員が、この年代でした。We’ll meet again という歌、あるいは言葉には、日本人の理解できない英国人の感情がありました。Mr.Lonely がベトナム戦争を背景にしているのと同じですね。

僕が大好きな曲に I’ll see you in my dreams という曲があります。誰のバージョンだったのか思い出せないのですが、邦題は、そのまま「夢で逢いましょう」だったと思います。個人的には、NHKの「夢で逢いましょう」の番組名は、この曲名からインスピレーションを得て付けられたのではないかと思っています。大瀧詠一さんの「夢で逢えたら」も内容的に酷似しており、強い影響を受けていると思います。少し前に映画で同名のものがありましたが、その中の同名曲とはまったく違う曲です。

オリジナルは1924年ですので、もう90年以上も前の歌ですが、英米で数え切れないほどのアーチストにカバーされています。「いまあなたは傍にいないけど、目をつぶればあなたに逢える」みたいな失恋ソングではありますが、歌詞が可愛くて暗くない。僕が知ったのはエラ・フィッツジェラルドのバージョンでしたが、2002年、ジョージ・ハリスンの死去から1年後に行われたジョージ追憶コンサートで、ジョー・ブラウンがウクレレを弾きながら、際限なく降り注ぐ紙吹雪の中、コンサート最後の「締めの曲」として演奏しました。リンゴも後ろで口ずさんでいました。意外な選曲でしたが、ウルウルきて思わず目頭が熱くなってしまいました。英米で古い歌が、いまだに若い人に歌い継がれるのは、メロディーもですが、やはり歌詞なのでしょうね。歌も歌詞や時代の背景が理解できると、「好き」に深みが加わります。

最近では「恋する気持ち」が高まると、対象の人を付け回したり、ヒドイ場合にはナイフで刺してしまう、なんて悲しい事件が起こってしまったりしますが、せめて I’ll see you in my dreams ぐらいにならないものだろうか。