阪神ファン

A:「あかんな」

B:「そんなもん、期待する方が間違うとるわ」

A:「今日はXXXが投げるから勝つやろ」

B:「5回持ったら、御の字ちゃうか」

A:「それにしても打てんな」

B:「昨日今日に始まった話とちゃう」

阪神が負けた次の日の朝、二人の阪神ファンが交わす会話はこんなものです。どちらも熱烈な阪神ファンではありますが、いつも、いつ負けてもいいように、口では「勝てない理由」を言います。会話の相手にではなく、自分自身に言っているのです。もちろん、心の中では勝ってほしいと願っていますが。期待しすぎると、負けた時にガッカリするからです。阪神は、過去に何度も、何度も、ここ一番になると常にファンの期待や予想を裏切ってきました。

僕が阪神ファンになったのは1958年、小学校2年生のときに隣のオジサンが僕を甲子園球場に連れて行ってくれて以来です。僕は初めて見る大観衆に圧倒され、周囲の応援の声に圧倒され、プロのピッチャーの速球に圧倒されました。ブーンという風を切る音を聞いた気がします。

甲子園球場は川を埋め立てて出来た土地に建てられ、当時も阪神甲子園駅から球場までは埋め立てた枝川の土手が残っていました。すぐ横には同じ阪神電鉄の路面電車が南北に走り、向かい側には阪神パーク、球場の裏にはテニス・コートと大きなプールがあり、夏になると泳ぎに行ったものです。

僕は日本で一番甲子園球場に近い高校に通っていました。なにせ、国道43号線を挟んで反対側でしたので、歩いて3分、走って1分でした。高校野球の地区予選だって甲子園です。僕が高校生だった頃は、まだ枝川の土手が残っており、関東炊き屋さん(かんとだき、と発音します。おでんのこと。最近では、ほとんど言わなくなりました)が何軒かありました。僕の母校は1923年の第9回全国中等学校野球大会(いまの全国高等学校野球大会)で優勝しています。そのときは決勝が兵庫と和歌山ということで鳴尾球場には入りきれないほどの観客が押し寄せ、それを見た阪神電鉄が、翌年、空いていた埋立地に「より大きな球場」を作ることを決めたのだそうです。僕の母校は甲子園球場が出来るきっかけになった、、、と勝手に僕は思い込んでいます。

1958年当時の監督は田中義雄。戦前の阪神で捕手として活躍したハワイ出身の日系人です。連れて行ってくれた隣のオジサンは戦前、田中義雄のファンだったらしく、彼がいかに捕手として優れていたか、いかに1937年と1938年の二連覇に貢献したかを詳細に説明してくれました。田中義雄は2年しか監督をしませんでしたが、1960年代の二度にわたる優勝に貢献した多くの選手を育成しました。村山実や吉田義男も田中義雄が育てた選手です。僕が小学生時代に捕手だったのは、そのときに聞いた話の影響でした。ちなみに、田中義雄は長嶋茂雄が村山実からサヨナラ・ホームランを放った天覧試合の阪神側監督でもあります。

田中義雄が抜擢した村山実はデビューした1959年には295回を投げ防御率1.19。阪神が優勝した1962年には366回(!)を投げて防御率1.20。しかも23完投(6完封)。1965年など26完投(11完封)で防御率は1.96.1970年には投手兼監督として165回、打者573人と対戦し、自責点はわずか17で防御率は0.98。規定投球回数(当時は年間130試合)に達した投手の中では、戦後唯一の防御率1点未満の成績を残しています。いま見ても、スゴイ数字ですね。

阪神は僕が小学校6年生の1962年に優勝。監督は1961年の途中から監督に就任した藤本定義でした。藤本定義は言うまでもなく元巨人の監督であり、彼は元巨人の青田昇をヘッドコーチとして呼び、打倒巨人を公言しました。しかし、シーズンが始まった頃には阪神が「小さな巨人」になったみたいで、複雑な気持ちだったことを記憶しています。この年の日本シリーズは東映が相手で、最初に甲子園で2連勝して盛り上がったものの、後はコテンパンでガッカリしました。

1964年にも同じ藤本定義監督のもと、優勝しました。この年はバッキーの大活躍(29勝!)が印象に残っています。外国人投手で沢村賞をもらったのは、おそらくバッキーが唯一なのでは?日本語が上手でひとなっつこく、新聞のインタビューでも日本語で受け答えしていました。日本シリーズは関西ダービーで相手は南海。3勝2敗で甲子園に戻ってきたものの、残り2試合を完封されてしまい、またまたガッカリ。最終戦の行われた10月10日は東京オリンピックの開会式が行われた日でもありました。

関西では阪神ファンはメジャーでしたが、就職して東京に住むようになってからはマイナー・グループに転落しました。当時はいまほど東京に阪神ファンはおらず、後楽園に行っても阪神ファンは少数でした。社内で関西会を作り、阪神の話題で盛り上がったものですが、社内に関西出身者が少なかったため、メンバーは関西出身者だけでなく、関西に親戚がいる人から、果ては、女子に限り、関西に行ったことがある人まで含めるというもので、唯一のルールは「関西弁以外は使用禁止」、そして、巨人戦では必ず阪神を応援すること、というものでした。

1985年。僕が脱サラした年ですが、阪神は21年ぶりに優勝、そして日本一になりました。田中義雄が育てた吉田義男が監督だったというのも、僕には何か因縁を感じさせるものでした。専売公社が関西限定でセブンスターの阪神優勝記念パッケージを発売しましたので僕は大量に購入し、東京へ仕事で行ったときには巨人ファンの知人・友人にお配りしましました。元いた会社の関西会の方々にもお渡しし、仕事でよく使っていた高プリの営業を脅かしてスイートを安く借り、飲めや歌えで大いに盛り上がったものです。僕の友人など紅白饅頭を100セット発注し、近隣の皆様にお配りしたそうです。そのとき、僕も含め、阪神ファンは有頂天になり、黄金期の始まりを確信しましたが、その後の暗黒時代など、誰一人として予期しませんでした。なにせ17年間で最下位が10回ですから。

いまの阪神ファンが自虐的な発言をするのは、このときに身に付いたものかもしれません。毎年6月か7月には、来年に備えて誰を育てるべきか、来年の監督は、あるいはコーチは誰がよいのか、といった話題で盛り上がるのですから。また、いくら6連勝しても、きっとそのあと6連敗するよ、なんて言ったものです。それは、喜び過ぎないよう自分自身に言い聞かせる言葉でもありました。

2003年。星野仙一監督のもと快進撃し、6月には二位中日に12.5ゲームの差をつけても、心の中では「どうせ8連敗とか9連敗するに違いない」といった気持ちが、どこか心の中にありました。8月に11勝12敗と負け越したときは、「ほら、こんなもんだ」と思いました。9月・10月も11勝13敗1分と負け越しましたが、8月以降、二位以下から抜け出てくるチームがなかったことが幸いしました。星野監督は僕の自宅から歩いて1分ほどのところに住んでおられ、よく朝に一人で散歩しておられるのをお見かけしました。しかし、僕の脳裏には1985年と、その後の暗黒時代の記憶がよみがえりましたので、派手な言動は慎み、ひたすら静かに優勝を噛み締めました。

2005年。岡田彰布に交代した1年目、阪神は4位でシーズンを終了しました。そのとき、我々阪神ファンは悔し紛れに、星野監督のときも1年目は4位で2年目が優勝だった。岡田監督も1年目が4位だったのだから、来年は優勝だ!と言ったものです。しかし8月時点で二位の中日に僅かに0.5ゲーム差しかありませんでした。いくら口では「今年は優勝だ!」なんて言っていても、殆どの阪神ファンは心の中で「今年は終わった」と思っていたでしょう。8月は死のロードで負け越し、9月に勝ち越した年が思い出せない阪神ファンの「経験則」だったのです。ところが、あにはからんや、この年の9月・10月はなんと19勝6敗。あり得ない数字です。二位の中日がコケてくれたおかげもあり、最後は二位中日に10ゲームもの差をつけていました。阪神ファンは再び絶好調モードに突入しました。しかし、その年の日本シリーズの話はしません。聞きたくもない。いまも多くの阪神ファンにとってはトラウマです。ロッテ関連企業が関西という大きなマーケットを失った瞬間でした。それ以来、いまでも僕はロッテ製品は絶対に購入しません。10年にわたり、一人静かに不買運動中です。再び日本シリーズでロッテと対戦し、初戦から4連勝するまで、ロッテ製品は買いません、欲しがりません、ロッテリアにも行きません。

阪神ファンにとって2008年は思い出したくない、あるいは記憶を消そうとしている年でしょう。7月に二位巨人に9.5ゲームの差をつけた時点で、全ての阪神ファンは、口には出さずとも心の中では「今年は決まった」と確信したに違いありません。8月は9勝11敗と負け越したものの、負け越しは、わずか2ゲーム。9月の11勝11敗という数字は普段の年の阪神から見れば悪くない。ところが10月の2勝5敗1分が痛かった。というより、巨人の8月が12勝7敗、9月・10月の21勝8敗1分、合わせて33勝15敗1分という数字が異常だった。3ヶ月連続して全てのカードが2勝1敗以上なんて、あり得ない。その結果、阪神はわずか2.0ゲーム差をもって巨人に次ぐ二位でシーズンを終え、監督が交代しました。阪神ファンは目が点になりました。実に情けない。阪神だけでなく、全ての球団がどうかしていた年だった、ということにしておこう。

今年の金本タイガースはオープン戦を1位で終えました。本来なら喜ぶべきことではありますが、同じく1位でオープン戦を終えた2011年は、5月に7勝15敗とボロボロになり、4位でシーズンを終えました。今年はまだ混戦ですので先は見えませんが、2011年の記憶があるため、多くの阪神ファンは言います。「今年はこれ以上良くなる要素がない。来年以降に向けて、どんどん若手を使わなあかん」

阪神ファンは素直ではありません。素直でないだけでなく、かなり歪んでいます。そこそこ出だしが良いとしでも、心の中では「何月まで楽しめるかなあ」ぐらいにしか思っていません。周囲から「今年の阪神は優勝できる」と言われても、心の中では「どうせ8月にはコケる」と思っていたりします。

それにもかかわらず、少々負けが込んでいても甲子園は一杯になります。実に不思議な球団ではありますが、関西人にとって、阪神は単なる野球チームではなく、いわば宗教であり、文化の一部だと評されます。まるで憎めないツンデレ女子のようなもの。時に腹立たしく、愛想が尽き果てる。ところが、どこか可愛いところがあり、いくら裏切られても、しばらく顔をみないと心配になってしまい、分かれるに分かれられない。

阪神が勝った日は11時のプロ野球ニュースに始まり、全てのチャンネルでスポーツニュースを見なければなりません。負けた日は、それを避けなければなりませんのでディスカバリーか囲碁・将棋チャンネルです。

いつも息子に言う言葉があります。「期待したらあかん。ここ一番では必ず負ける。それが阪神や」