MRJ初飛行に思う

ようやくMRJのテスト飛行が始まり、量産と就航は時間の問題となったようです。

第二次大戦の結果として日本は航空機の開発どころか運行までもが禁止されましたが、朝鮮戦争勃発後の1951年には米国の意向で航空会社(日本航空)が設立され、米軍機の整備や修理を日本で行うため規制の一部が解除されました。終戦からわずか10年後の1955年には、米国製ジェット練習機とジェット戦闘機のライセンス生産が決定し、1957年には全面的に規制が撤廃されています。誤解なさらないでいただきたいのですが、日本の航空機技術が完全に途絶しなかったのは、朝鮮戦争のおかげだったのかもしれないと思うのです。

解禁になる1957年前後から政府主導による民間機の自主開発計画がスタートしたものの、資金的にも厳しく、民間機開発の経験にも乏しい日本の計画は迷走します。政治家は、戦前から戦時中を通じ、あれだけ多くの航空機を設計したのだから、民間機ぐらい簡単だろう、と思ったに違いありませんが、そこが「ボタンの掛け違い」の第一歩でした。事実、当初の主要設計者は堀越二郎(零戦)、太田稔(隼)、菊原静夫(紫電)、土井武夫(飛燕)など、木村秀政以外はすべて元戦闘機の設計者でした。

その結果、生まれたのがYS-11。双発のターボロップ機で、ロールスロイスのエンジンを搭載していました。深夜に羽田から伊丹まで飛ぶ、ムーンライトと呼ばれたフライトがありましたが、主翼あたりの席に座ると、(僕には)心地よい振動が伝わってきたものです。高度による航路分けのせいでしょう、日本アルプスを斜めに横切り、かなり北回りで大阪平野に進入するのですが、高度が低いだけに夜景が美しかった。ただし、主翼あたりに座ると、何も見えない。

しかし、僕には心地よかったエンジンの振動や音も、航空機に関心のない方には、単なる騒音でしかありません。搭乗口の開口部が低く、長身の人が頭を打つということも頻発したそうです。何よりも、操縦性にクセがあり、海外のパイロットからは、きわめて不評だったそうです。当時の日本人パイロットの多くは戦闘機上がりでしたので、少々クセがあっても気にならなかったのでしょう。

YS-11が様々な意味で勝てなかったのがフォッカー社のF-27、通称フレンドシップ。何度か乗りましたが、主翼が機体の上にあるため、見晴らしが良い。最も感動したのがパリからベルンに飛んだときでした。アルプス山中を低い高度で飛び、山の間を抜けると、一瞬にしてベルン郊外のお花畑が目の前に広がります。当時、ベルンにはジェット機の乗り入れが許されていませんでしたので便数も少なく、ジュネーブに降りて、ジュネーブから電車という人が殆どでした。僕は、一度はこのフライトに乗りたいと思っていましたので、IATAの時刻表を調べ、わざわざパリに降りて、このフライトに乗りました。そして、一面、見渡す限り黄色(なたね?)のお花畑の真ん中に着陸します。僕の人生の中で、もっとも感動的なランディングでした。しかし、驚いたのは滑走路を横切るように白線が引いてあり、着陸すると信号が青になり、そこを普通にクルマが走っていることでした。F-27は、エンジンの出力が小さかったのでしょう、気流で機体が振られます。しかし速度も遅く、天気の良い日など、まるで揺りかごに乗ったまま空中に浮かんでいるようでした。

話が脱線しました。YS-11に戻りましょう。

ロールアウトは1962年7月、三菱の小牧工場でした。初飛行は8月。期間だけ見ると順調だったように見えますが、ビジネス・モデルとしては最初から破綻していました。モノは作ったものの、コスト管理、販売体制、サービス体制など、ビジネスとして成立するための「肝心な部分」がゴッソリ欠落しており、売れば売るほど赤字になる状態に陥りました。官僚が会社を経営すると、こうなるという見本のような状態だったと評する方もおられます。

軍用機と民間機は似て否なるものと言われます。軍用機の技術で開発した民間機ですので、機体そのものにも改修すべき点が多く、なによりもコストダウンできなかったことが大きく響きました。外板のジュラルミンは米国製、タイヤですら米国製でした。当時の日本では、発着回数が多く、コストの面からも高い耐久性が要求される民間機のタイヤが作れなかったのです。

当初は好調な売れ行きで海外でも販売数が伸びましたので、ピーク時には月産3機を越えました。が、悲しいかな航空機ビジネスのノウハウが無いため、結果的には赤字で販売するような状況に陥りました。そもそも故障しても、部品が来ない。まだサービス体制すら確立できていないのに、次々と機体を海外に販売したのですから無理はありません。民間航空機は、1日飛べないだけでも膨大な損失を航空会社に与えます。その結果、せっかく販売しても代金を支払ってくれない状況も発生しました。

累積赤字は膨らむ一方で、この体制では将来の見込みがない、ということで、総生産数、182機(当初の計画は150機)で1981年、政府は撤退を決定しました。残った赤字は360億円。そのうち長期支払いとリース契約に応じたことで生じた金利負担が94億円、為替差損が153億円でした。しかし、赤字の中で、金利負担も大きいですが、これだけ為替差損が大きかったということは、ある意味では不可抗力だったのかもしれませんが、企業である限り、「見通しが甘かった」、あるいは「対処する方法すら用意していなかった」と言われても仕方がない。誰も責任を取らない「天下り企業」ならではのことでしょう。しかし、当時、日本の国家予算は50兆円。国家100年の計を考えれば、撤退以外にも方法はあったと考えるのは僕だけではないと思います。その結果、ようやく芽生え始めた航空機ビジネスの下地は、すべて途絶してしまいました。航空機ビジネスは、ノウハウの塊です。

日本では、我々の仕事でも同じですが、材料費や部品代は高くても全額支払われます。しかし、目に見える技術ですら低く評価され、相応の対価までは支払われないことがあります。目に見えないノウハウに至っては殆ど評価されず、ひどい場合は無料だと考える方が少なくありません。欧米では、いわゆるコンサルタント会社が数多くあり、そういったノウハウを有料で提供しています。技術とノウハウは、すべてのことにおいて同等に重要だということをYS-11の結果は示しているように思います。

 

オールジャパンで挑んだYS-11が惨憺たる結果だっただけに、次の民間機に対しては「石橋を叩いても渡らない」式の議論が繰り返され、貴重な時間を失っただけでなく、その間に多くの優秀な技術者を失いました。最終的には2002年に三菱が自主開発することでMRJ計画がスタートし、2015年11月に初飛行しました。

YS-11からMRJまでの間、多くの人たちが日本の民間機開発計画に携わられ、その都度、大きな落胆を繰り返してこられただけに、MRJの初飛行には隔世の思いを持たれたのではないでしょうか。そして、喉の奥にずっと引っかかっていたものが取れたような感慨を持たれたのではないでしょうか。

しかし、経験がない、蓄積された技術やノウハウがない、ということは悲しいことです。起こり得る問題を予期することが出来ないのです。これは我々の仕事でも同じです。そのたびに解決方法を考え、様々なことを試してみます。要するに、とてつもなく時間が掛かる、言い換えればコストが掛かるということです。

MRJは何度もスケジュールを延期し、そのたびに開発費が跳ね上がってきました。最大の原因はFAA(アメリカ連邦航空局)による審査の中身を甘く考えていたことではないでしょうか。民間航空機は、輸出する国の型式証明を取らなくてはならず、そのための安全審査に合格しなければなりません。FAAによる審査は殆どの国で尊重されますので、まずはFAAの審査に合格しなければなりません。某国のリージョナル・ジェットは、最初から米国への販売など考えていないのでしょう、FAAの審査を受ける気配すらありません。

日本にも国土交通省に航空機技術審査センターという部署があり、型式証明の審査を行います。しかし、MRJの審査を行う前は、僅か6名。しかも、YS-11から時間が経過しすぎたため、審査のノウハウは無いに等しい。慌てて人材をかき集め、FAAから人を呼んで講習会を開く、などという有様でした。現在は在籍する73名全員がMRJの審査を行っているそうです。国内での状況は、審査を受ける側も、審査をする側も、どちらも初めての経験なのです。

開発段階からFAAの審査内容をあらかじめ詳しくリサーチしてこなかった、あるいは出来なかったというのは、かなり致命的なミスだったのでしょう。使用するネジ1本にまで安全性の証明が必要になりますので、そういったものは出来るだけ既に安全性が証明されている米国製にものを使うのが時間的には近道です。今、時間はコストなのですから。

ようやく審査に合格しても、まだビジネス上の問題や、サービスの問題があります。何が起こるのか、現状では、それが予期できないところに恐ろしさがあります。それでも、前へ進むしかありません。

MRJは三菱にとってというより、日本にとって、とてつもなく大きなチャレンジですが、そういった試練を乗り越え、経験を重ね、ノウハウを蓄積し、次のモデルや派生型に発展して欲しいものです。ボーイング707の胴体設計を流用した737の初飛行は1967年。シリーズ受注総数はすでに12,000機に達しようとしていますが、いまだに派生型が開発されています。1機50億円として60兆円。MRJもボンバルディアとエンブラエルがオウン・ゴールでコケてくれれば、50年で5,000機だって夢じゃない。

 

<追記 2023/03/23>

<< MRJは2023年2月、正式に開発が中止されました。やはり案じていた通り、FAAの型式証明が取れないことが理由でした。慌てた三菱は急遽ボーイングのOBに参加してもらい取得を目指しましたが、「これで通るはず」と強く主張する日本人設計陣と、「これでは通らない」というボーイングOBとの間に意見の対立があったと聞きます。ロールアウトから9年です。たとえ今から型式証明が取れたところで競争に勝てる見込みがなく、ビジネス的には「さらなる赤字を積み上げるだけ」という判断があったことは想像に難くありません。1兆円という開発費を投じても日本では旅客機が作れなかった。技術がなかったのではなく、ノウハウがなかった。設計開始時からノウハウを持った人材を参加させるべきだったと言う方もおられますが、おそらく、それでも結果は同じだったでしょう。日本人は技術を過信し、ノウハウを軽く見るからです。今回のことで日本はノウハウが技術と同じ、あるいは技術以上に価値があるものだということを学んだことでしょう。あまりにも高すぎる授業料でしたが、この経験を決して無駄にすることなく、すぐにでも体制を整え、国家事業として新たな挑戦をしていただきたいものです。それだけ航空機産業は魅力的な産業だと思うからです。それに、いまさら政府の借金が1兆円増えたところで、50歩・51歩ぐらいの差しかありませんからね。>>

 

片や、今年は日本人が所有する唯一の飛行可能な第二次大戦機(零戦)が日本で初飛行しました。組立やメインテナンスに必要な資金はクラウド・ファンディングで集まったそうです。素晴らしい。第二次大戦の兵器というだけで拒否感を持たれる方も少なくないとは思いますが、戦闘機というものは、その時点での、その国における最高の技術を集約した機械です。すべての戦争は、戦争という悲惨な行為を行った「人」に責任があるのであって、「機械」に責任はありません。当時の技術の結晶として、誇るべきものだと思います。ドイツにも飛行可能な、第二次大戦機どころか、レプリカですが第一次大戦機すら少なくありません。最近では、オリジナルの設計図から部品を起こし、ゼロから組み立てた第二次大戦機も飛んでいます。三菱には零戦のオリジナル設計図が残っていると聞きます。なぜ三菱は零戦を作って飛ばさないのか、過去の技術に対するプライドはないのか、戦犯企業と呼ばれることが怖いのか、なんて思ってしまうのですよ。(注:僕は単なるシロートの飛行機好きで、巷間呼ぶところの、ライト・ウイングではありません。念のため)

20年前、鳴海章さんが零戦をレストアする小説を書きたいとおっしゃり、僕のつたない経験談をお話しさせていただいたことがありました。「50年目の零戦」という小説で、いまでも文庫本で入手可能です。そのときは、日本人の所有する零戦が日本の空を飛ぶなど、夢のような話でしたが、それが実現したことは嬉しい限りです。様々な規制のため、まだ日本人による飛行は先のことのようですが。

今年は同じ三菱が作ったX-2も初飛行しました。いわゆるステルス機で、実際に空を飛ぶステルス機としては、世界で4ヵ国目だそうです。これは単に現在保有する技術を実証するためだけの機体ですので、まだ海のものとも山のものとも知れぬと思います。実証機を作るのと戦闘機を作るのとでは必要とされる技術も、設計に要する工数も、そして何よりも開発しなければならないソフトウェアの質と量が圧倒的に違います。スポーツで言えば、地区大会とオリンピック選手ぐらいの差があるのではないでしょうか。実証機が飛んだからといって、それで戦闘機が開発できると考えるのは、あまりにも早計に過ぎると思います。

現在生産中のF-35は2006年に初飛行し、すでに200機以上が生産されたにもかかわらず、まだ「当面の最終バージョン」にあたるソフトウェアが完成していません。米軍への納入は2011年に始まったものの、現在のソフトウェアでは行えない重要なミッションがいくつかあるようです。開発に掛かった費用だけでも、すでに50兆円近いと言われています。3種類のバージョンを作りますので3で割ったとしても17兆円です。日本が次期戦闘機を国産で開発するといっても、常識的に考えて、遥かに進んだ技術を保有している米国が10兆円以上掛けたものを、わずか数千億円で開発できると考えるのは、あまりにも楽観的に過ぎるのではないでしょうか。

米国が第二次大戦後、今日に至るまで開発した試作機は、おそらく1,000種類に近いのではないでしょうか。そのうち実際に生産(量産)されたものだけでも200や300はあるのではないでしょうか。日本は、せいぜい両手で数えられる程度です。保有する技術やノウハウには天地の開きがあります。設計者の数だって、ひと桁どころか、ふた桁は違うでしょう。ロシアだって、米国ほどではないにしても、日本とは圧倒的な差があります。いま、中国は日本とは比較にならないほどの開発費用を注ぎ込んでいます。日本の防衛費、5兆円のうちの45%近くは人件費です。駐日米軍の費用だって負担しなくてはなりませんので、兵器の開発や購入に使える資金は、ごくごく限られています。それでミサイルは買わなくてはならない、イージス艦は作らなくてはならない、F-35だって毎年6機しか買えません。真剣に次期戦闘機を国産技術で開発しようと思うのなら、それこそ毎年1兆円程度を、最低でも10年ぐらいは予算化しなくてはならないのではないでしょうか。どうせ、いまや日本は1,000兆円の借金大国です。国策として毎年1兆円やそこいらを航空産業育成に投資しても、それが将来の産業化に役立てば安いもんだと思うのですけどね。電気や造船はすでに衰退の一途ですし、自動車産業も、日本のGDPを押し上げるほどには伸びないでしょう。しかし、航空機やロケットには、まだまだ隙間があるのでは?

技術を確保するためには背伸びしなければならないことは言うまでもありませんし、それが日本の産業全般に与える技術的恩恵も膨大ですが、どこまで頑張って背伸びするのかはMRJと同じく、純粋に政治判断でしょう。米国と共同開発するといっても、必要な技術を持っていなければ相手にもされないでしょうし、せいぜい出資者(タニマチとも言います)として扱われる程度ですからね。技術は、いますぐ必要ない、あるいは無駄な投資だと思っているときにこそ育てていなければ、その技術が差し迫って必要になった時には、手遅れなのではないでしょうか。

 

それにしても、零戦が飛び、MRJが飛び、X-2が飛びました。文化的な意味でも、技術的な意味でも、ようやく周回遅れから同周にまで追いつき、遠くに米国や欧州の背中が見えてきたように感じます。

それはそうと、初飛行したX-2ですが、当然ながら名古屋空港や各務ヶ原の自衛隊基地ではレーダーで捕捉していたと思いますが、実際に「昆虫ぐらい」だったのでしょうか。そのため、F-2とF-15が有視界距離で一緒に飛んだのだと思いますが、F-2やF-15のレーダーには、どのように写ったのでしょうね。興味があります。昆虫大だったとしても、実は失敗作で、もっと大きかったとしても、言ってはくれないと思いますが。

 

 

 

 

 

 

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