ライト・フライヤー

ホンダ・ジェットの記事を読み、ふと、ライト・フライヤーを連想し、調べたくなった。僕がライト・フライヤーの実物を見たのは1971年、スミソニアン博物館だった。あまりにも古めかしく、それ以来、なんとなく航空機の歴史はずいぶん長いように感じていたが、自動車の歴史、約240年に比べれば半分以下の短い時間で、これほどにまで進歩したということに、いまさらながら驚く。

ライト・フライヤーは人類史上初めての「原動機付き航空機」として認識されている機体だ。ライト兄弟はオハイオ州デイトンにあった小さな自転車屋だったが、空を飛ぶことを夢見て、研究、実験、開発、そして1000回近いテスト・フライトを繰り返した。片やホンダは自転車に自社製の小型エンジンを付けた自動二輪の製造・販売に始まり、ついには創始者である本田宗一郎が夢見た航空機メーカーになった。ライト・フライヤーとホンダ・ジェットに共通していたのは、エンジンから機体まで、すべてを自社開発したことと、夢を諦めない強い心だった。

画像は1903年の初飛行時に撮影されたとされる。腹這いになって操縦しているのが兄のウィルバー、横に立つのが弟のオーヴィル。左右のプロペラは反転式で、左のプロペラを駆動するチェインは途中で交差している。画像の左側が後ろ、右側が前で、レールの上を滑って離陸し、そりで着地する。

飛行の原理は1810年に英国のジョージ・ケイリーが論文として発表し、後年、彼は実際にグライダーを作り、100mほど飛行したという記録が残っている。しかし、いまの感覚でいう「航空機」が飛行したのは1903年、ライト兄弟の製作したライト・フライヤーが最初であった。ライト・フライヤーには4気筒・4,000cc ( ! )・12馬力の手作りエンジンが搭載されており、当日行った4回の飛行のうち最も長い飛行距離は260m、時間にして59秒だった。しかし、それを目撃したのはわずか5人であり、多くの大学教授ですら「機械が空を飛ぶことは科学的に不可能」という反論を新聞に掲載したほど、当時としては常識外れの出来事だった。

そう思うと、毎年行われている「鳥人間コンテスト」に出てくる機体はスゴイと思ってしまう。人力飛行機は、どのような許可が必要なのだろうか?強度テストなど出来るわけもなく、勝手に作って、勝手に飛んでもいいものなのだろうか?

原理の発表から100年間にわたり実現しなかった動力付き航空機をライト兄弟が実現した秘訣は数多いが、もっとも大きな着目点は「主翼を捩じる」ことにより機体を左右に傾け、姿勢を制御したことだった。当時の主翼は木製のリブに布が貼ってあっただけなので、捩じることが出来たのだ。それまでは姿勢が制御できなかった、言い換えればまっすぐ飛ぶことができなかったため、飛び立っても、すぐに傾いて墜落した。加えて、ライト・フライヤー以前は方向舵だけで左右に回れると考えられていたが、オートバイと同じで、機体を回転の内側に向けて傾けなければ回れない。回転の外側に向かって遠心力が働くからだ。あとから考えると単純な発見だったが、ライト兄弟はこれを確認するために数えきれないほどの風洞実験を行っている。画期的な技術というものは得てしてこういう単純な着目点、あるいは発想の転換を起点とするものだ。

ライト兄弟は改良を続け、米国内だけでなく欧州への販売も画策する。1908年にはフランスで公開飛行を行ったが、その時の飛行時間はわずか2分弱。ただし8の字飛行を行い、フランスの関係者を驚かせた。それまで欧州で開発された機体は8の字飛行が出来なかったからだ。そのとき参加した中にアンリ・ファルマンがおり、彼は8の字飛行の秘訣が主翼を捩じることにあると見抜き、すぐさま上下に動くエルロン(補助翼)を開発した。この発想が突破口となり、フランスでは一気に航空機の開発が進む。当時のフランスは技術先進国だったのだ。ちなみに、世界初の自動車と言われる蒸気機関で動く三輪車も、1769年にフランスで開発されている。

Henri Farman

ライト・フライヤーの初飛行からわずか6年後、ライト兄弟がフランスでデモ飛行を行った翌年の1909年にフランスで行われた競技会では、ファルマンが飛行時間、ラタムが高度、ブレリオが速度の各部門で優勝者となり、ライト・フライヤーはいずれの部門でも入賞すらできなかった。しかも、ブレリオはその年にドーバー海峡横断までやってのけた。たった1年でライト・フライヤーは技術の進歩から大きく取り残されてしまったのだ。

Blériot XI

フランスで航空機が一気に発展した最大の理由はエンジンにあった。特にノーム・エンジンは優秀で、上記のファルマンにもすでに搭載されていた。これも発想の転換から生まれたエンジンで、通常はエンジンの中でクランク・シャフトが回転するが、このエンジンはクランクを機体に対して固定し、エンジンそのものがプロペラと一緒に回転するという、確かに、エンジンを冷やすには良い発想だったが、丈夫なクランクや、重いエンジンを支えるベアリングなど、様々な技術が高い水準で揃っていなければ作れないエンジンだった。小さな水冷エンジンで、長くて強度の低いチェインを介してプロペラを回すライト式とは雲泥の差であり、資金的にも、技術的にも、ライト兄弟の手の届かないところで開発が行われたのだから、彼らに勝ち目はなかった。ノームは第一次世界大戦では両陣営で使用され、ライセンスも入れると総生産数は10万基と言われる。当時、航空機がそれほど多くない時期の10万基だ。(1909 Gnome で検索すれば動画が見つかります)

航空機は1914年に始まった第一次世界大戦では戦況を左右する核心兵器として各国で大量に生産された。戦争は平時の何倍もの速度で技術を発展させる。人類初の動力飛行から、わずか15年ほどの出来事だった。

Sopwith Pup

1916年に登場した英国の軽量戦闘機で、僕の好きな航空機のひとつだ。ドライ・ウェイトはわずかに357kg。10人いれば、簡単にかついで移動できる。WWIはそれこそ半年ごとに、より強力な戦闘機が投入されたため、パップも1年ほどしか最前線で活躍できなかった。しかし操縦性が優れていたため、戦後も多くがレーサーや曲芸飛行に使われ、派手な塗装の機体も多い。エンジンはル・ローヌ(ノーム)ライセンスの80馬力か100馬力(防空用)だった。パップは米国にも採用されたが、日本でもソ式3型として50機が採用された。面白いのは軍艦の砲塔の上に置いた短い滑走台から離陸できたことと、テニスコート1面に着陸できると言われたほど短い距離で着陸できたため、空母にも搭載された。

初代ライト・フライヤーには安定性に致命的な欠陥があり、ライト兄弟の操縦でしか飛行できなかったと言われる。後に改良され、販売された機体ですら、ヘタに機体を傾けると、そのまま横滑りして墜落したらしい。そのため、機体の販売価格にはパイロット1名の訓練費用が含まれていた。近年になって何機かレプリカが作られ、実際に飛んだ機体もあったようだが、1999年には1903年の初飛行を実証するため、現存しているオリジナルの機体を細部に至るまで忠実に再現した復元機が作られた。しかしながら、NASAで行われた風洞実験やコンピューター解析では安定性が極めて悪く、しかも、再現機は飛び立つことすらできなかった。現在では、1903年の初飛行に限って言えば、当日の強風とウィルバーの操縦技術こそが飛行を可能にしたという考えが主流のようだ。彼らは毎日必ず天気予報を確認し、風の強い日を選んで飛行テストを行っていた。当日は4回の飛行を試みたが、離陸できたのは1回だけ。強い追い風の時だった。

1909年にライト兄弟は Wright Company を創設し、改良を重ねながら120機程度を生産・販売したと言われる。1912年に兄のウィルバーが病死すると弟のオーヴィルは1915年に会社ごと Glenn L. Martin Company に売却してしまい、Wright-Martin Aircraft Company になった。F-35を開発した Lockheed Martin Corporation の前身である。

ライト兄弟の功績は長い間、米国では否定的に扱われた。彼らは自分たちの特許に固執して他社の開発を阻害したため、彼らの特許を無視した欧州に比べ、米国における航空機開発が大きく遅れたからだ。ライト兄弟は彼らの特許を基本特許と考えており、彼らの特許を使わず飛行することは不可能だと考えていたようだ。現在では、彼らの特許には「技術」だけでなく、「原理」が含まれており、特許とは認めがたいという評価だが、だからといって彼らの努力や功績が評価されないのは不当だ。特許審査官が技術と原理の区別が付かず、「原理」を含む内容を特許技術として認めたことと、その後の訴えを認めて他社の開発に制限を加えた当局こそ責められるべきであった。また、ライト兄弟の功績を認めず、様々な工作を行ったカーチスとスミソニアン協会は卑劣であった。たかが自転車屋ごときにと言う考えが、そこにあったとしか思えない。様々な論争はあったものの、第二次世界大戦中の1942年になり、やっとスミソニアン協会はライト・フライヤーを世界初の原動機付航空機と認定した。弟のオーヴィルが亡くなったのは、その6年後、第二次世界大戦が終了した3年後の1948年。享年76歳。ライト・フライヤーがスミソニアン博物館に収納、展示されたのはオーヴィルの死後だった。

1948年にはすでにジェット機が飛んでいた。オーヴィルはプロペラすら持たないジェット機を見て、どのように感じただろうか。